資治通鑑漢紀三十一 淮陽王更始 一年 23年

春正月 甄阜・梁丘賜の敗死と宛攻略

  • 漢軍は下江兵と連携して甄阜・梁丘賜を攻め、大勝して両将を斬り、兵二万余を討ち取った。
  • 王莽方では厳尤・陳茂が宛を確保しようとしたが、劉縯が淯陽付近でこれを破り、そのまま宛を包囲した。
  • それまで青州・徐州の反乱軍は統一した制度や号令に乏しかったが、南陽で漢兵が起こると、将軍号を称し、文書を発して王莽の罪を唱える勢力が各地に現れ、王莽はここで初めて強い危機感を抱いた。

更始帝の擁立

  • 平林軍中にいた劉玄は、更始将軍を名乗っていた。漢軍が十余万に膨れ上がると、諸将は人心をまとめるため劉氏の擁立を議した。
  • 南陽の豪傑や王常らは本来、劉縯を立てたがったが、新市・平林の将帥たちは劉縯の威厳を恐れ、統御しやすい劉玄を選んだ。
  • 劉縯は、王莽未滅のうちに宗室が並び立てば天下を惑わせ、赤眉まで別に君主を立てかねないとして慎重論を述べたが、張卬らが強く押し切り、劉玄擁立が決まった。
  • 二月、淯水のほとりで壇を設け、劉玄は皇帝に即位した。大赦を行い、年号を改めた。劉良を国三老、王匡・王鳳を上公、朱鮪を大司馬、劉縯を大司徒、陳牧を大司空とし、ほかも九卿・将軍に任じた。
  • しかし、劉縯を推したかった豪傑たちは失望し、新政権への不満を抱いた。

王莽の体制立て直し

  • 王莽は外見上は平静を装い、須髪を染め、杜陵の史諶の娘を皇后に立て、後宮の位階も大量に整えた。
  • さらに天下に赦令を出し、王匡・哀章らに青州・徐州の盗賊討伐を、厳尤・陳茂らに南陽方面の討伐を命じ、降る者は助命することを明言したうえで、大軍による掃討を予告した。

春三月 昆陽・定陵・郾の平定と王莽軍の大動員

  • 王鳳と劉秀らは昆陽・定陵・郾を巡って攻略し、これらを降した。
  • 厳尤・陳茂が敗れた報を受けると、王莽は王邑・王尋に山東平定を命じ、兵法家六十三家を招き、長身の巨母霸を壘尉に置き、さらに猛獣まで集めて威圧に用いた。
  • 洛陽に集結した兵は州郡選抜の精兵を中心に四十三万、号して百万余とされ、旗や輜重が千里に続く大軍となった。

夏五月 昆陽籠城

  • 王尋・王邑らが潁川に進出すると、漢の諸将は兵力差に恐れ、昆陽に退いて籠城した。妻子を案じて離散しようとする者も多かった。
  • 劉秀は、兵糧も乏しい今こそ力を合わせて防ぐべきで、昆陽が落ちれば諸部も一日で滅ぶと説いて諸将を奮い立たせた。
  • 城中の兵は八、九千にすぎず、劉秀は王鳳・王常に守備を任せ、自らは夜陰に乗じて少数騎兵とともに出城し、外で援軍を集めた。
  • 王邑は昆陽を先に屠って威を示そうとし、厳尤の「宛を先に攻めれば昆陽は自然に服する」との進言も退けた。昆陽は幾重にも包囲され、地道・衝車・楼車・弩矢で激しく攻められ、城中は戸板を背負って汲水するほど困窮した。王鳳らが降伏を願い出ても許されなかった。

宛陥落と岑彭の帰順

  • 一方、宛では棘陽の長岑彭と甄阜の副将だった厳説らが守っていたが、数か月の包囲で城内は人肉食にまで至った。
  • ついに宛は降伏し、更始帝が入った。諸将は岑彭を殺そうとしたが、劉縯は節を守った郡の大吏としてその忠義を評価し、助命を主張した。
  • 更始帝は岑彭を帰徳侯に封じた。

六月 昆陽の戦い

  • 劉秀は郾・定陵で諸営の兵をことごとく動員しようとしたが、諸将は財物を惜しんで分兵を望んだ。劉秀は、敗れれば財物どころか首も残らぬとして、全兵を出させた。
  • 六月朔日、劉秀は自ら千余の歩騎を率いて前鋒となり、王莽軍の数千と戦って勝ち、数十級を斬った。諸将はその勇を見て気を盛んにし、続いて数百から千級に及ぶ首級を挙げた。
  • さらに劉秀は敢死の兵三千で敵中の精鋭へ突入した。王尋はこれを軽く見て自ら出たが、陣は乱れ、漢兵に討たれた。
  • 城内の漢兵も太鼓を打って一斉に出撃し、内外から挟撃すると、新軍は総崩れとなった。雷風と豪雨まで加わり、滍川は増水し、多数が溺死した。敗走兵は互いに踏みつけ合い、伏尸は百余里に及んだ。
  • 王邑・厳尤・陳茂らは軽騎で死体を踏み越えて逃れたが、軍資・輜重はすべて漢軍の手に落ち、数か月かかっても運び尽くせぬほどだった。
  • この勝利により海内の豪傑は一斉に呼応し、郡県の長官を殺して自ら将軍を称し、漢の年号を用いる者が急増した。

潁川平定と馮異の帰順

  • 劉秀はさらに潁川を巡行し、父城を攻めたが落とせず、巾車郷に駐屯した。
  • 潁川郡掾の馮異は漢兵に捕えられたが、老母のいる父城へ戻って五県を説得し、功を立てて報いることを願い出た。劉秀は許した。
  • 馮異は父城の長苗萌に対し、他の諸将は暴横でも劉秀だけは略奪せず、言動も凡人ではないと説き、苗萌とともに五県を挙げて降った。

劉縯誅殺

  • 新市・平林系の諸将は、劉縯兄弟の威名が高まるのを恐れ、ひそかに更始帝へ除去を勧めた。
  • 劉秀は兄に危険を告げたが、劉縯は平然としていた。更始帝は大集会を開き、申徒建が玉玦を差し出して早決を促したが、更始帝自身はためらっていた。
  • しかし劉縯の部将劉稷が「起兵して大事を図ったのは伯升兄弟なのに、更始とは何者か」と怒り、抗威将軍の拝命を拒んだため、更始帝はこれを誅しようとした。
  • 劉縯が強く救おうとすると、李軼・朱鮪はこれを口実に更始帝へ進言し、劉縯も同日に逮捕・殺害された。
  • 劉縯の死後、同族の劉賜が大司徒に任じられた。

劉秀の自制と更始帝の対応

  • 劉秀は父城から宛へ急行して謝罪したが、劉縯の旧属と私語を交わさず、ただ自分の責を引き受ける姿勢を見せた。
  • 昆陽の大功を誇らず、兄の喪にもあえて服さず、飲食や言動も平常どおりにしたため、更始帝はかえって恥じ入り、劉秀を破虜大将軍に任じ、武信侯に封じた。

王莽政権内部の謀反と崩壊の兆し

  • 道士西門君恵は、讖文から「劉氏の再興」を唱え、王莽の衛将軍王渉に国師公劉秀の名がそれに当たると説いた。
  • 王渉は国師公劉秀・大司馬董忠・孫伋らとともに、兵をもって王莽を脅し漢へ降る計画を立てたが、七月に孫伋がこれを密告した。
  • 王莽は董忠を詰問してその場で殺し、一族を残酷に処刑・埋葬した。劉秀・王渉も自殺した。王莽は骨肉や旧臣の内応を世に知られるのを嫌い、その誅殺を隠した。
  • 以後、王莽は近臣すら信じられなくなり、王邑を呼び戻して大司馬とし、張邯・崔発・寿容苗訢を三公級に登用したが、憂悶して食も進まず、酒と鰒魚ばかり口にし、軍書を読んでは几にもたれて眠るようになった。

隴右・蜀・汝南など諸方の蜂起

  • 天水方面では成紀の隗崔・隗義、上邽の楊広、冀の周宗らが起兵して平襄を攻め、王莽の鎮戎大尹李育を殺した。
  • 隗崔の甥隗囂は名望があり、諸将に上将軍として推戴された。方望を軍師に招き、高祖・太宗・世宗を祀って劉氏再興を誓い、十万の兵で雍州牧陳慶・安定大尹王向を討ち、隴西・武都・金城・武威・張掖・酒泉・敦煌まで帰服させた。
  • 蜀では公孫述が導江卒正から勢力を伸ばし、南陽人宗成や商人王岑らの義兵を迎えたが、その軍が成都で略奪を働いたため、偽って漢の使者を称し、自らを輔漢将軍・蜀郡太守・兼益州牧として精兵を率い、これを撃ち破ってその衆を併合した。
  • 汝南では前の鍾武侯劉望が帝位を称し、厳尤を大司馬、陳茂を丞相とした。

秋八月 洛陽・武関方面の進撃

  • 更始帝は王匡に洛陽攻撃を命じ、申屠建・李松には武関攻めを命じた。
  • 析人の鄧曄・于匡が南郷で起兵して応じ、武関都尉朱萌を降し、さらに宋綱を殺して西の湖まで奪取した。
  • 王莽はさらに憂え、崔発の進言で南郊に出て符命の由来を涙ながらに天へ訴えた。庶民にも朝夕集まって哭くことを促し、悲痛さの度合いで郎官に取り立てることさえ行った。
  • また「九虎将軍」を置いて北軍の精兵数万を率いさせ、妻子を宮中に置いて人質としたが、厚い報償を惜しんだため兵の怨みは強く、戦意も乏しかった。

九虎将軍の敗北と長安への圧迫

  • 九虎軍は華陰の回谿で隘路を守ったが、于匡・鄧曄に攻撃され、六虎は敗走、二虎は帰京後に自殺、四虎は逃亡し、残る三虎が渭口の倉城を保つのみとなった。
  • 鄧曄は武関を開いて漢兵を迎え、李松の軍とともに京師倉を攻めた。さらに王憲を左馮翊方面へ進めると、通過した県の豪族は次々に「漢将軍」を称して合流した。
  • 長安城下には四方の兵が集まり、天水の隗氏も迫ると伝わって、都城は強い圧迫を受けた。

九月 長安陥落と王莽の最期

  • 王莽は城中の囚徒を赦して武装させ、豨の血を飲ませて新室への忠誠を誓わせたが、更始側の史諶がこれを率いて渭橋を渡ろうとすると、兵は散ってしまった。
  • 民衆や兵士は王莽一族の墓を暴き、九廟・明堂・辟雍を焼き払った。火は長安の内外に燃え広がった。
  • 九月朔日、諸軍は宣平門から突入し、張邯が戦死した。翌日には都の少年たちまで蜂起し、作室門や宮殿の門を打ち壊して「王莽は降れ」と叫んだ。黄皇室主は漢家に顔向けできぬとして火中に身を投じた。
  • 王莽は宣室前殿から漸台へ退き、虞帝の匕首を持ち、天文郎に式を按じさせながら、天命は自分にあると言い張った。
  • 夜明け、群臣に支えられて漸台へ移ったが、王邑父子・王巡・䠠惲らが戦死し、兵は数百重に台を取り囲んだ。矢が尽きて白兵戦になると、午後には台上に敵兵が上がり、苗訢らも戦死した。
  • 最後は商人杜呉が王莽を殺し、公賓就がその首を斬った。兵士たちは遺体を寸断して奪い合い、相互に殺し合うほどだった。
  • 公賓就は首級を王憲に届け、王憲は自ら漢の大将軍を称して長安兵数十万を従え、東宮に宿して王莽の後宮や車服を奪った。
  • その後、李松・鄧曄・趙萌・申屠建らが長安に入り、王憲が璽綬を上納せず宮女や鼓旗を私したとしてこれを斬った。王莽の首は宛の市に送られ、人々は叩き、舌を切って食らう者までいた。

王莽評

  • 班固は、王莽は当初は外戚でありながら節を守って名誉を求め、補政期には国家のため勤労したが、仁を装って実行は伴わない人物だったと総括する。
  • 四代にわたる王氏の権勢、漢室の衰微、太后の長寿など時勢に乗じて簒奪を成し遂げたが、即位後は黄帝・虞舜の再来を自任して威と詐をほしいままにし、中国内外に害を広げ、ついには天下の生民を塗炭に陥れたと評した。
  • 秦が詩書を焼いたのに対し、王莽は六経を唱えて姦言を飾っただけで、結局はどちらも滅亡したのであり、聖王の出現に先立って掃除される存在にすぎなかったと論じている。

冬十月 洛陽平定と劉秀の司隷校尉就任

  • 王匡は洛陽を抜き、王莽方の太師王匡と哀章を生け捕りにして斬った。
  • 奮威大将軍劉信は汝南で劉望を討ち、厳尤・陳茂も誅したため、郡県は次々に降った。
  • 更始帝は洛陽への遷都を考え、劉秀を行司隷校尉として先行させ、宮府の修復と秩序の回復に当たらせた。
  • 劉秀は旧制どおりに僚属・従事を整えた。三輔の吏民は、他の将軍たちが婦人の服装まで交えた乱れた姿で通るのを笑っていたが、劉秀の司隷府だけは旧漢の威儀を備えていたため、老吏には涙を流して漢官の復活を喜ぶ者もいた。

北方の帰服工作

  • 更始帝は各郡国に使者を送り、先に降る者には旧爵位を戻すと伝えた。
  • 上谷では太守耿況が印綬を差し出したが、使者が返還を渋ったため、功曹寇恂が兵を率いて面会し、上谷で最初に大信を損なえば他郡に号令できなくなると迫って、印綬を耿況に返させた。

漁陽・赤眉・李憲・劉永

  • 宛人の彭寵は渔陽におり、同郷の韓鴻が更始帝の使者として北方を巡ると、承制によって偏将軍・行漁陽太守事に任じられた。吳漢はそのもとに身を寄せていた。
  • 更始帝は赤眉にも降伏を促し、樊崇らは一時兵を留めて二十余人の渠帥を洛陽へ送った。更始帝はこれを列侯に封じたが、封邑が与えられず配下が離散し始めたため、彼らは再び本営に戻った。
  • 廬江連率で潁川人の李憲は郡を拠って自守し、淮南王を称した。
  • 旧梁王劉立の子劉永は洛陽へ来て、更始帝から梁王に封じられ、睢陽に都した。これはのちに東方で勢力を張る基盤となる。

劉秀の河北派遣

  • 更始帝は親しい大将を河北へ派遣しようとしたが、大司徒劉賜が「諸家の子弟では文叔のみが用うべき人材だ」と強く推薦した。
  • 朱鮪らは反対したが、更始帝は最終的に劉秀を行大司馬事として節を持たせ、黄河を渡って州郡を鎮撫させた。劉賜自身は丞相となり、関中へ先行して宗廟・宮室を修めることになった。

劉秀、河北で人心を収める

  • 劉秀は河北で通過した郡県ごとに官吏の能否を考査し、囚徒を釈放し、王莽の苛法を除き、漢代の官名へ戻した。
  • 吏民は牛酒を捧げて出迎えたが、劉秀は受け取らず、清廉な振る舞いで評判を高めた。

鄧禹・馮異の献策

  • 南陽の鄧禹は劉秀を鄴で追い、天下の形勢を論じた。更始帝は凡庸で将軍たちは財貨と権威ばかりを求め、天下を安んじる器量がないから、劉秀は英雄を集め民心を悦ばせ、高祖の業を継ぐべきだと説いた。
  • 劉秀は大いに喜び、以後たびたび計議に参与させた。
  • 劉秀は兄の死後、独居すると酒肉を避け、泣き痕を残すほど悲しんでいたが、主簿馮異は更始の政乱と民心の動揺を挙げて、今こそ官属を各郡県に派遣して恩沢を布くべきだと進言した。劉秀はこれも受け入れた。

耿純・王郎出現の前夜

  • 宋子の耿純は邯鄲で劉秀に謁し、その軍法や統御が他将と違うのを見て自ら帰属した。
  • ところが、故広陽王の子劉接が薊で起兵して王郎に呼応し、情勢は不安定化した。
  • もともと趙の有力者劉林は、王莽の時に長安で「成帝の子」と称した子輿の話を利用し、邯鄲の卜者王郎をその真子だと信じ込んだ。赤眉が黄河を渡るという流言に乗じて「劉子輿が立つ」と宣伝すると、民間ではこれを信じる者が多かった。
  • 十二月、劉林らは車騎数百を率いて早朝の邯鄲城に入り、王郎を天子に立てた。さらに将帥を各地へ派遣すると、趙国以北、遼東以西まで望風帰附する勢いとなった。