資治通鑑漢紀三十 王莽 地皇 三年 21年

正月から二月 九廟成る

  • 春正月、九廟が完成し、神主が納められた。
  • 王莽は自ら参拝し、大駕に六馬をつけ、五色の毛で龍文を作った馬衣をかけ、角を三尺立て、九重の華蓋を載せた四輪車に乗った。
  • これを引く者たちは「登仙」と唱えたが、百官はひそかに、これは仙具というより喪車のようだとささやいた。
  • 二月、樊崇らは景尚を殺した。

関東飢饉と赤眉の成立

  • 関東では人が人を食うほどの飢えとなった。
  • 夏四月、王莽は太師王匡と更始将軍廉丹に東方の群盗討伐を命じた。
  • 樊崇らは、殺人は死罪、傷害は賠償という程度の簡単な約法を設け、首領も三老・従事・卒史など、郡県で見慣れた呼び名を用いるだけだった。
  • しかし太師・更始の大軍が来て、味方どうしの乱戦を避ける必要が生じたため、彼らは互いを見分けるため眉を赤く染めた。これが「赤眉」の名の始まりである。
  • 王匡・廉丹は精鋭十余万を率いたが、行く先々で放縦し、民を苦しめた。そこで世人は「赤眉に逢うはまだしも、太師に逢うなかれ。太師はまだましだが、更始は卒をも殺す」と歌った。結局、田況の言ったとおりになった。
  • 王莽はまた、多くの大夫や謁者を派遣して、草木を煮て酪を作れと民に教えたが、食べられたものではなく、ただ負担を増しただけだった。

緑林の分裂と諸将軍

  • 緑林の賊には疫病が流行し、死者がほぼ半数に達したため、諸部は分散した。王常・成丹は西へ入り南郡に拠って下江兵を称し、王鳳・王匡・馬武とその党の朱鮪・張卬らは北へ入り南陽に出て新市兵を称した。皆自ら将軍と号した。
  • 王莽は司命大将軍孔仁に豫州を、納言大将軍厳尤に、秩宗大将軍陳茂に荊州を分担させ、各自百余人の吏士を従え、駅伝で赴任して兵を募らせた。
  • 厳尤は陳茂に対し、将軍に兵符も与えず、動くたびにいちいち請命させるのは、名犬を綱でつないだまま獲物を取れと責めるようなものだと語った。

蝗害と流民、長安市の欺瞞

  • 蝗が東方から飛来して空を覆い、関中へ流入した流民は数十万に達した。王莽は養贍官を置いて食糧を支給させたが、監督の使者や小吏が配給を横領し、餓死者は七、八割にもなった。
  • 以前から王莽は中黄門の王業に長安市の売買を掌らせ、民から安く買い上げさせていたので、人々は苦しんでいた。
  • 王莽が都城の飢饉を問うと、王業は「皆、流民が騒いでいるだけです」と答え、市で売っていた粱飯や肉羹を持ち込んで、住民の食事はこれほど豊かだと見せた。王莽はそれを信じた。

新市・平林兵の活動と廉丹への諫言

  • 秋七月、新市賊の王匡らが随を攻めると、平林の陳牧・廖湛・復聚ら千余人が呼応して平林兵を称した。
  • 王莽は廉丹に詔書を送り、「倉廩も府庫も尽きた。今こそ怒り、戦うべきだ。将軍が野に身を捨てぬなら恩に報い責を塞げない」と迫った。
  • 廉丹は恐れて夜に掾の馮衍を呼び、この書を見せた。馮衍は、張良が韓のため秦始皇を博浪沙で狙った故事を引き、廉丹の祖先が漢の名将であったことを踏まえ、新室には英俊がつかず、人心は漢を思っているから、今は大郡に拠って士を撫し、豪傑を収め、社稷の利を興すべきだと説いた。
  • だが廉丹は聞かなかった。

無塩・成昌の戦い

  • 冬、無塩で索盧恢らが城を挙げて反乱し、賊に呼応した。廉丹と王匡はこれを攻め落とし、一万余級を斬った。
  • 王莽は中郎将を遣わして璽書で労い、廉丹・王匡を公に進め、功のあった吏士十余人を封じた。
  • 赤眉別校の董憲ら数万人は梁郡にいた。王匡は進んでこれを撃とうとしたが、廉丹は、城を抜いたばかりで兵が疲れているから休養すべきだと主張した。王匡は聞かず、独断で進軍し、廉丹もやむなく従った。
  • 成昌で戦って大敗すると、王匡は逃走した。廉丹は吏に自分の印綬節を王匡へ渡させ、「あの若者は逃げてもよいが、自分はそうはいかぬ」と言って踏みとどまり、戦死した。
  • 校尉の汝雲・王隆ら二十余人も、廉公が死んだ以上だれのために生きようかと言って皆戦死した。

王莽の防衛強化

  • 国将の哀章は自ら山東平定を願い出たので、王莽は彼を東へ走らせて太師王匡と協力させた。
  • また大将軍楊浚を敖倉守備に、司徒王尋を十余万で洛陽駐屯に、鎮南宮大司馬董忠を中軍北壘で兵の訓練に当たらせ、大司空王邑には三公の職を兼ねさせた。