資治通鑑漢紀三十 王莽 地皇 二年 20年

正月 王莽の家門の変

  • 春正月、王莽の妻が死に、孝睦皇后と諡された。
  • 彼女は王莽がしばしば自分の子を殺したため、悲嘆のあまり失明していた。王莽は太子臨に中宮で看病させた。
  • 妻に仕えていた原碧を王莽が寵愛し、臨もまた原碧と通じた。二人は露見を恐れて王莽暗殺を謀った。
  • 臨の妻の愔は国師公の娘で、星占いを行い、宮中に白衣の会があると告げたため、臨は計画成功の兆しと喜んだ。
  • しかしのちに臨は統義陽王として外邸に出され、不安を深めた。王莽の妻が危篤になると、臨は「王は子孫に厳しく、長孫・中孫も三十歳で死んだ。自分も今や三十で、いつ身が保てなくなるかわからない」と書き送った。
  • 王莽はこれを見て激怒し、悪意を疑って葬儀への参列も許さなかった。葬後に原碧らを捕えて尋問すると、姦通と暗殺計画がすべて露見した。
  • 王莽は事を秘匿しようとし、事件担当の司命属官を獄中で埋め殺して所在も知らせなかった。臨には毒薬を賜ったが、臨は飲まず自刃した。
  • さらに国師公には、臨が星事を知ったのは愔の影響だと詔して、愔も自殺した。
  • その月、新遷王安も病死した。

興・匡の迎接と李氏輔漢の讖

  • 王莽が侯として新都国にいたころ、侍者の増秩・懐能に生ませた子の興・匡を当地に残していた。父が誰か明らかでないためである。
  • 安が死ぬと、王莽は王車を遣わして興・匡を迎え、興を功脩公、匡を功建公に封じた。
  • 卜者の王況は魏成大尹の李焉に対し、漢家は再興し、李氏がこれを助けると語り、そのための讖文を十余万言にまとめた。発覚すると、王莽は関係者を皆殺した。

青徐・句町への出兵

  • 王莽は太師配下の羲仲景尚、更始将軍護軍の王党に兵を率いさせて青徐の賊を撃たせ、また国師配下の和仲曹放を郭興の援軍として句町征討に送った。
  • しかしいずれも勝てず、軍は放縦して百姓をさらに苦しめた。
  • 王莽はまた、天下の穀物や布帛を西河・五原・朔方・漁陽へ大量に運ばせ、匈奴討伐に備えた。

須卜当の死と私鋳罪の拡大

  • 須卜当が病死すると、王莽は庶女をその子の後安公奢に嫁がせ、厚く遇して、やはり匈奴へ出兵し奢を立てるつもりでいた。だが王莽の敗亡により、云・奢もまた死んだ。
  • 秋には霜が降って豆類が枯れ、関東は大飢饉と蝗害に襲われた。
  • 私鋳銭の法を軽くした後は違反者がかえって増え、五人組の連坐によって男女が官奴婢として大量に送られた。男は檻車、女は徒歩で鉄鎖を首にかけられ、鍾官へ送られた者は十万単位に達した。
  • 到着後には夫婦が引き離され、愁苦のうちに死ぬ者が六、七割にも及んだ。

瓜田儀の死後処遇・高廟への加害・新たな賊

  • 上谷の儲夏は瓜田儀を説得降伏させようと願い出たが、儀は出る前に死んだ。王莽はその遺体を探して葬り、塚と祠室を建て、「瓜寧殤男」と諡した。
  • 閏月丙辰に大赦があり、郎の陽成脩が符命を献じて、王莽は民の母を継いで立てるべきだと述べ、さらに黄帝は百二十人の女性によって神仙に至ったと説いた。
  • そこで王莽は中散大夫や謁者を各四十五人ずつ天下に分派し、郷里で名高い淑女を探して上申させた。
  • また王莽は漢の高廟の霊を嫌い、虎賁武士に命じて高廟に入り、四方を打ち、斧で戸や窓を壊し、桃湯を注ぎ、赭色の鞭で壁を打たせた。さらに軽車校尉を中に住まわせた。
  • この年、南郡では秦豊が万近い兵を集め、平原では女子の遲昭平が数千人を率いて河中の洲に拠った。

公孫禄の直言と王莽の拒絶

  • 王莽は群臣に賊平定の方策を諮ったが、多くは「天の囚人」「動く死体」であり、命はもう尽きるといった空論ばかりだった。
  • 旧左将軍の公孫禄だけは、太史令宗宣は凶を吉と偽って天文を乱し、太傅の唐尊は虚飾で名位を盗み、国師公劉秀は五経を倒錯させ、明学男張邯と地理侯孫陽は井田法で民業を害し、羲和魯匡は六筦で工商を窮させ、説符侯崔発はおもねりで下情を遮っている、として、まずこれらを誅して天下を慰めるべきだと述べた。
  • さらに匈奴は攻めるべきでなく和親すべきで、新室の憂いは国境の外ではなく国内にあると指摘した。
  • 王莽は怒って虎賁に公孫禄を引き出させたが、民衆の怨みが深いという理由づけのため、魯匡だけは左遷して五原卒正とした。六筦は本来、魯匡一人の案ではなかったが、民意を満たすための処分だった。

荊州牧軍の敗北と賊勢拡大

  • 当初、各地の賊は飢寒に追われて群れをなしただけで、豊年になれば郷里に帰ろうと思っており、城邑を奪うほどの企図はなかった。長吏や牧守が戦乱の中で自滅し、賊も必ずしも彼らを殺そうとしていたわけではない。だが王莽はその事情を理解しなかった。
  • この年、荊州牧は奔命二万人を動員して緑林賊を討ったが、王匡らは雲杜で迎え撃って大破し、数千人を殺し、輜重を奪った。
  • 荊州牧が北へ退こうとすると、馬武らが再びこれを遮撃し、車の屏泥に引っかけて軍を崩し、驂乗を刺し殺した。それでも牧本人までは殺さなかった。
  • 賊はさらに竟陵を落とし、雲杜・安陸を攻め、婦女を多く拉致して緑林に帰った。五万人余に膨れ上がり、州郡では制御できなくなった。
  • 豫州で按察中だった大司馬士が賊に捕えられたこともあり、釈放後に実情を報告すると、王莽はそれを虚偽とみなして激怒した。
  • 王莽は七公に対し、盗賊は飢寒の産物ではなく逆乱そのものだとし、「貧困ゆえ」と述べる者は罪に問えと命じた。こうして下の者はますます実情を語れなくなり、州郡も勝手に兵を動かせず、賊は一層抑えがたくなった。

田況の一時的成功と召還

  • ただ翼平連率の田況だけは果断で、十八歳以上の民四万余人を動員し、庫兵を授け、石に刻んだ盟約で統制した。樊崇らはその威を聞いて境内に入れなかった。
  • 田況は無断で兵を発したとして自ら劾奏したが、王莽は虎符なしの動員を「弄兵」と責めつつも、賊を必ず捕えると自負したことを理由にひとまず不問とした。
  • その後、田況が界外に出て賊を撃つことを願うと、行く先々で勝利した。王莽はいったん璽書で青徐二州牧事を兼ねさせた。
  • しかし田況が、盗賊拡大の原因は郡県の虚報と、将帥や使者が上官への応対・酒食・物資調達に地方を疲弊させ、かえって賊より害が大きいことにあると具体的に論じ、使者の召還と地方への委任を求めると、王莽はその有能さを恐れて陰で代任を準備した。
  • 使者は田況のもとに来ると、その場で交代者に軍を監させ、田況を長安へ呼び、師尉大夫にした。田況が去ると、斉地はついに崩れた。