正月 改元と重罰政策
- 春正月乙未、天下に大赦があり、王莽は元号を地皇と改めた。これは三万六千歳暦の説に従うものだった。
- 王莽は、出軍や行軍の最中に騒擾し法を犯す者は時を待たず斬ると布告した。
- そのため春夏のあいだ、都市で処刑される者が相次ぎ、百姓は震え上がって、道で出会っても目配せするだけで物を言えなかった。
軍制拡張と財政逼迫
- 王莽は四方の盗賊を見て、さらに厭勝しようと考え、黄帝以来の軍制を引き合いに出し、前後左右中の大司馬を置き、州牧以下にも大将軍・偏将軍・裨将軍・校尉の号を加えた。
- 駅伝の使者が郡国をひっきりなしに巡り、一日に十隊にも及んだ。だが倉には見在の穀が乏しく、車馬も足りないので、往来の民間の車馬まで取り上げて運用した。
秋七月 王路堂の被害と王位継承の再編
- 秋七月、大風が王路堂を破壊した。王莽は壬午の午後に烈風と雷雨で屋根が吹き飛び木が折れたとし、十日ほど気がふさぎ、やっと解けたと下書した。舜の「烈風雷雨、弗迷」を引いて自らを飾ったものである。
- そのうえで、以前符命により安を新遷王、臨を統義陽王として洛陽に拠らせ、統の中心とし、臨を皇太子にすべきだという議論があったが、臨は兄がいるのに太子を称したのが名分に合わず、病後もすぐれなかった、と述べた。
- 即位以来、陰陽が和せず、穀物は減り、蛮夷の侵寇、盗賊の蜂起、人民の困窮が続くのは、この「名の不正」にあるとして、安を新遷王、臨を統義陽王と正式に立て直した。
- また「黄を貴び赤を卑しむ」として、郎以下の従官に絳衣を着せた。
九廟造営と馬適求事件
- 望気や術数の者が土木の兆しを唱える中、九月甲申、王莽は長安城南に九廟の建設を始めた。黄帝廟は方四十丈・高さ十七丈、他の廟はその半分で、きわめて壮麗だった。
- 天下の工匠や吏民を広く徴発し、義名で金穀を出させ、道路には運搬の列が絶えなかった。費用は数百万に上り、従事した者の死者は万単位に達した。
- その月、大雨が六十日余も続いた。
- 鉅鹿の馬適求らは燕・趙の兵を挙げて王莽を討とうと謀ったが、大司空士の王丹が発覚させた。王莽は三公大夫に命じて関係者を逮捕させ、郡国の豪傑数千人にまで連座を広げて皆殺した。王丹は輔国侯に封じられた。
貨幣法緩和と唐尊・郅惲
- 私鋳銭や宝貨を誹る罪で死刑となる者が多すぎたため、王莽は法を少し軽くした。私鋳して泉布を作る者は妻子とも官奴婢とし、比伍の者や知りながら告発しない官吏も同罪とした。宝貨を誹る民は一年の作役、官吏は免官とした。
- 太傅の平晏が死ぬと、予虞の唐尊を太傅に任じた。唐尊は国が空虚で民が貧しいのは奢侈にあるとし、自ら粗末な短衣小袖を着て、牝馬に柴車を引かせ、藁を敷き、土器で飲食した。
- また暦書を公卿に配り、男女が道を違えず歩いているのを見ると自ら車を降り、赭色の幡でその衣を汚して刑に代えた。王莽はこれを喜び、公卿に同様の節行を命じ、唐尊を平化侯に封じた。
- 汝南の郅惲は天文・暦数に明るく、漢は再び天命を受けると考え、王莽に対し、天命を天に返して退位すべきだと上書した。王莽は怒って詔獄に繋いだが、冬を越えて赦しにあい、ようやく出ることができた。