春:西羌討伐
- 春、竇況らが西羌を撃破した。西海郡政策への反発はひとまず武力で抑え込まれた。
五月:新貨幣の鋳造
- 五月、貨幣制度を改め、錯刀を五千、契刀を五百、大銭を五十とする新貨を造り、五銖銭と並行流通させた。
- しかし民間では盗鋳が多発したため、列侯以下が黄金を所持するのを禁じて御府へ納めさせ、額面分の代価を与えるとした。ところが実際には十分な支払いはなされなかった。
翟義の挙兵
- 東郡太守翟義は、王莽が幼い宗室を立てて周公の義を仮託しつつ、実は漢を奪う意図を隠していると見抜いた。宰相翟方進の子として漢恩に報いるべきだと考え、姉の子である上蔡の陳豐とともに起兵を決意した。
- 翟義は東郡都尉劉宇、厳郷侯劉信、武平侯劉璜らと結び、九月の都試の日に観令を斬って兵を掌握し、郡内の勇士を募って部隊を整えた。東平王劉匡の兵も合わせ、劉信を天子に立て、自らは大司馬柱天大将軍を号した。
- 檄文では、王莽が孝平帝を毒殺し、天子の位を奪って漢を絶とうとしていると断じ、新たに立てた天子のもとで天誅を加えると諸郡国へ呼びかけた。軍勢は山陽に至る頃には十余万となった。
王莽の対応
- 王莽は知らせを聞いて恐れ、食も通らなかった。太皇太后は側近に「人心は遠くない。女の私にも王莽がこのことで自ら危うくなるのが分かる」と語った。
- 王莽は孫建・王邑・王駿・王況・劉宏・王昌・竇況らを将軍に任じ、関西人から校尉や軍吏を選び、関東の甲卒を招集して討伐軍を編成した。さらに武讓を函谷関、逯並を武関、劉秀を宛に置いて防備を固めた。
三輔の群盗蜂起
- 翟義の乱に呼応するように、三輔では茂陵以西から汧にかけて二十三県で盗賊が蜂起した。
- 槐里の趙朋・霍鴻らは将軍を称し、官寺を焼き、右輔都尉や斄令を殺し、主力が東へ出払って京師が空虚だとして長安を窺った。兵は十余万に膨れ上がり、未央宮前殿の前に火光が見えるほどであった。
- 王莽はさらに王級・閻遷・王惲・王晏・趙恢らを将軍として配備し、甄邯を大将軍として高廟で鉞を受けさせ、天下の兵を統領させた。王舜・甄豐は昼夜宮中を巡回し、王莽は日ごとに孺子を抱いて郊廟に祈った。
大誥の宣布
- 群臣は、成王の幼時に周公が摂政し、管蔡が禄父を奉じて反乱した故事を引き、今の翟義も劉信を奉じて乱を起こしただけであり、かえって王莽の聖徳を明らかにすると持ち上げた。
- 冬十月甲子、王莽は『周書』の大誥にならって大誥を作り、宗室の俊秀四百人と民間の賢者九万人をもって後嗣のことを謀っていると称し、自らはやがて孺子へ返政する意志があると天下に宣言させた。桓譚らがこれを各地へ持って行き、説諭した。
翟義の敗死
- 東征諸将は陳留の菑で翟義軍と会戦し、これを破って劉璜を斬った。王莽は大いに喜び、車騎都尉孫賢ら五十五人を軍中で列侯に封じ、ただちに大赦を行った。
- その後、翟義は圉城に追い詰められ、十二月に大敗した。劉信とともに逃亡したが、固始界で翟義は捕らえられ、屍を陳都で磔にされた。劉信はついに捕まらなかった。