資治通鑑漢紀二十八 孝平皇帝下 元始 五年 5年

正月:祫祭と宗室統制

  • 春正月、明堂で祫祭が行われ、諸侯王二十八人、列侯百二十人、宗室の子弟九百余人が召されて助祭した。礼後、戸数の加増・爵位・金帛・昇秩・補職などの恩賞が与えられた。
  • 王莽は長安の南北郊を復活させた。成帝・哀帝以来、天地の祭祀場所はたびたび移されており、これが五度目の変更だった。
  • また、漢初から数えて宗室子弟が十余万人に達しているとして、郡国ごとに「宗師」を置き、宗室を監督して教訓させるよう命じた。

孔光の死と王莽への請願

  • 夏四月乙未、博山簡烈侯孔光が死去し、贈与と葬送は極めて盛大で、車は一万両を超えた。馬宮が太師となった。
  • 王莽が新野田を受けなかったことを讃える上書は四十八万余人に達し、諸侯王・公・列侯・宗室も叩頭して王莽への加賞を急ぐよう求めた。
  • 王莽は、礼楽制作が完成したら退いて賢者に道を譲りたいので、群臣の請願は打ち切ってほしいと上書したが、甄邯らは太后に取り次ぎ、結局九錫の礼を速やかに施す詔が下った。

五月:九錫授与

  • 五月、策命によって安漢公王莽に九錫が与えられた。彼は衮冕・緑韍・玉具・鸞路・龍旂・戎路・彤弓盧弓・朱鉞金戚・甲胄・秬鬯・青玉圭・朱戸納陛・宗官祝官卜官史官・虎賁三百人など、天子・上公級の象徴を受けた。
  • 各地の風俗を巡察していた王惲らは帰京し、天下が皆王莽を讃える歌謡を三万言も作ったと報告した。後世の視点では誇張・捏造であったが、この時は王莽の権威づけに使われた。

閏月:明堂造営と侯封

  • 閏月丁酉、劉秀ら四人に明堂・辟雍の造営を担当させ、文王の霊台や周公の洛邑営建に比すべき事業だとした。さらに王惲ら八人も風俗教化の功で列侯に封じられた。

異論の弾圧

  • この時、広平相班穉だけは嘉瑞や歌謡を上奏せず、琅邪太守公孫閎は災害の存在を公府へ報告した。
  • 甄豐は部属を両郡へ飛ばして、吏民に祥瑞だけを言わせ、災害を隠させたうえで、公孫閎には虚偽の不祥を造った罪、班穉には嘉応を断って聖政を妬んだ罪を着せた。班穉は班婕妤の弟であることから太后の配慮で死を免れ、相印を返して延陵園郎となったが、公孫閎は獄に下されて誅された。

厳罰化と定陶陵墓問題

  • 王莽はさらに、価格は一つに統一し、役所に訴訟はなく、盗賊も飢民もなく、道に落し物もなく、男女は別路を行くという理想秩序を掲げ、違反者には象刑を科すよう奏した。
  • また、共王母丁姫は本来臣妾の身分でありながら、元帝山陵と同等の高さの墓を持ち、皇太后級の璽綬を副葬しているのは不当だとし、その墓を発いて璽綬を取り出し、共王母の墓を定陶の共王墓の次へ移し、丁姫は媵妾の次位に落として改葬するよう求めた。太后は「すでに済んだことだ」と躊躇したが、王莽は譲らず、結局実行された。
  • 公卿はみな王莽の意向に迎合し、銭帛を出し、子弟・諸生・四夷まで十余万人を動員して、二旬で両墓を平らにした。王莽はその跡に棘を巡らせ、後世への戒めとした。
  • 共皇廟も破壊され、この改葬議に関わった泠褒・段猶らは合浦へ流された。師丹は公車に召されて関内侯となり、のち義陽侯に改封されたが、まもなく死んだ。

馬宮退任

  • 哀帝の時、馬宮は傅太后の諡号を議した一人であった。王莽が過去の議論を蒸し返して前議者を追及すると、馬宮だけは厚遇されて罪を免れたが、内心では恥じ恐れた。
  • 彼は、自分の以前の議論は迎合であり、経義に背き君主を惑わせた不忠だったとして、太師・大司徒・扶徳侯の印綬を返上し、退きたいと上書した。八月、王莽は太后詔の形でこれを許し、侯のまま自宅へ退かせた。

子午道

  • 王莽は、皇后に子孫の瑞があるとして、杜陵から南山を直貫し漢中へ通じる子午道を開かせた。

孝平帝の崩御

  • 泉陵侯劉慶は、成王幼少のとき周公が居攝した故事を引き、今の天子も若いのだから、安漢公に天子の事を行わせるべきだと上書した。群臣はこれに同意した。
  • しかし孝平帝は成長するにつれ、衛后が抑圧されたことから王莽を恨み、心中では不快を抱いていた。
  • 冬十二月、王莽は臘日に椒酒を献じ、その中に毒を入れた。帝が病むと、王莽は自分の命と引き換えにしてほしいと泰畤へ請命する策書を作り、周公の金縢の故事になぞらえて前殿に収め、諸公に口外を禁じた。
  • 丙午、孝平帝は未央宮で崩じた。天下に大赦が行われ、六百石以上の官吏には三年服喪を命じた。王莽は孝成廟を統宗、孝平廟を元宗とし、孝平帝には元服を加えて康陵に葬った。
  • 平晏が大司徒となった。太后と群臣は後継を議したが、元帝の系統は絶え、宣帝の曾孫のうち現存する王は五人、列侯は四十八人いた。王莽は年長者を嫌って、「兄弟は互いに後嗣となれない」と言い、宣帝の玄孫をみな召し寄せて幼少者から選ぼうとした。

符命の始まり

  • この月、前煇光の謝囂が、武功長孟通が井戸を浚って白石を得、その上円下方の石に丹書で「告安漢公莽為皇帝」とあると奏した。符命がここから本格化した。
  • 王莽は群公をして太后に告げさせたが、太后は「天下を欺くもので実行してはならない」と拒んだ。太保王舜は、王莽は簒奪までは望まず、まず摂政の名で権威を重くし、天下を鎮めたいだけだと説いて押し切った。
  • ついに太后は、宣帝玄孫二十三人のうち適任者を選んで平帝の後継とし、その幼主を安んじるため、王莽に周公の故事にならって「居攝」させる詔を下した。群臣はさらに、王莽に天子の服冕・扆座・朝儀・郊祀・宗廟・宮家国采での諸侯礼などを天子同様に行わせるよう奏し、太后はこれを許した。