正月:郊祀と法令
- 春正月、高祖を天に配して郊祀し、孝文を上帝に配して宗祀した。
- また、殷の後裔の紹嘉公を宋公、周の後裔の承休公を鄭公に改めた。
- 婦女で自ら罪を犯していない者、八十歳以上や七歳以下の男子については、家族が不道や特別指名による逮捕に当たる場合を除き拘禁してはならず、取調べが必要でも居所で尋問するよう法令化した。
二月:皇后冊立
- 二月丁未、大司徒王宮・大司空甄豐らが法駕を奉じて安漢公邸へ赴き、王莽の娘を迎えて皇后璽綬を授け、未央宮へ入れた。天下に大赦が行われた。
- 太僕王惲ら八人は副使を伴い節を持って天下へ派遣され、風俗の巡察にあたった。
夏:王莽への加封と宰衡号
- 夏、太保王舜らおよび官民八千余人が、陳崇の提案どおり王莽への加賞を請願した。
- 有司は召陵・新息二県と黄郵聚・新野田を加封し、伊尹・周公にならって「宰衡」の称号を与え、位を上公の上に置くこと、また王莽の母に「功顕君」の号を与え、子の王安・王臨を侯に封じることなどを求めた。
- 太后は前殿に臨み、王莽を親しく封拝した。王莽は固辞して封事を出し、母への称号だけを受け、自身と子の印綬・称号・封邑は返したいと願ったが、孔光らは功に見合わないとして許さず、詔で強制的に出仕させた。結局、王莽は追加分のうち一部だけを辞し、他は受けた。
- さらに王莽は増額された聘礼の銭の一部を太后の近侍や養育にあたる者へ贈った。彼は太后周辺への贈賂と気遣いを常に重ね、太后の姉妹にもみな「君」の号と湯沐邑を与えたため、左右の評判は日ごとに王莽へ傾いた。
太后歓心策
- 王莽は、太后が深宮での生活に飽いていることを見抜き、四時ごとの巡狩を四郊で行わせた。訪問先では孤寡・貞婦を慰問し、属県ごとに恩賜を施し、民へ銭帛・牛酒を賜るのを恒例とした。
- 太后の身近に仕える下級の女官の子が病むと、王莽は自ら見舞いに行くほどであった。こうして細部まで歓心を買った。
明堂・辟雍・学制整備
- 王舜は、王莽が大国の封土も万金の聘礼も辞退し、天下がそれに感化されているとして、その徳は虞・芮を譲らせた文王にも劣らないと奏した。孔光はますます恐れて病を称して辞位を願ったが、太后は十日に一度だけ入朝させ、几杖と特別の食事を賜って名誉を保たせた。
- 王莽は明堂・辟雍・霊台を造営し、学者のために万区の宿舎を築いた。楽経を立て、博士員を増やし、諸経・逸礼・古書・天文図讖・鐘律・月令・兵法・史籀文字などに通じる者を天下から召し、前後千人余が集まった。廷中でそれぞれ説を記録させ、学説の異同を正そうとした。
- また、治河の専門家も数百人徴集した。関並は黄河の氾濫地域を官民の居住から空ける案を述べ、韓牧は九河旧道の一部再開削を唱え、王横は西山沿いの高地を通して東北へ海へ流す新路を主張した。桓譚は慎重な検証を勧め、失業民を役使して公私両便を図れると説いた。だが王莽は空論を好み、実行には移さなかった。
九錫議と宗廟改変
- 群臣は、周公は七年で制度を定めたが、王莽は四年で大きな事業を成し遂げたとして、宰衡の位をさらに高め、九錫を議すべきだと奏上し、詔でこれを認めた。
- 王莽はさらに、孝宣廟を中宗、孝元廟を高宗と尊び、宣帝の皇考廟は取り壊して再修しないこと、また南陵・雲陵を県に改めることを奏し、いずれも認められた。
西海郡設置と諸改革
- 王莽は、北では匈奴、東では海外、南では黄支が服属したのに、西だけが不足しているとして、中郎將平憲らに塞外羌を誘わせた。
- 羌の豪族良願らは、一万二千人の部族を率いて内属を願い、鮮水海・允谷・塩池などの地を献じた。その理由として、太后と安漢公の徳政により瑞兆が相次ぎ、苦しみがなくなったためと述べた。
- 王莽はこの地を西海郡とし、天下を十二州に分けて古制に合わせるよう奏請し、認められた。冬、西海郡が置かれた。
- また法令を五十条増補し、違反者は西海へ移住させた。移民は千万人単位に及び、民衆の怨嗟が起こり始めた。
- 梁王立は衛氏と通じた罪で廃され、南鄭へ流されて自殺した。京師は前煇光・後丞烈の二郡に分けられ、公卿大夫から州郡名まで大規模に改名・再編され、役所も現場も対応しきれないほど混乱した。