資治通鑑漢紀二十八 孝平皇帝下 元始 三年 3年

春:皇后選定と占卜

  • 春、太后は長樂少府夏侯藩・宗正劉宏・尚書令平晏らを派遣し、王莽の娘を皇后候補として正式に見定めさせた。使者たちは、王氏の娘は徳化に馴染み、容姿も奥ゆかしく、皇后として宗廟祭祀を継ぐにふさわしいと復命した。
  • 太師孔光・大司徒王宮・大司空甄豐・左將軍孫建・執金吾尹賞・劉秀・太卜・太史令らが礼服で卜筮を行うと、結果は吉で、婚姻は国家に安寧と吉祥をもたらすと解された。
  • 宗廟にも正式に婚礼の件を告げた。皇后の納采に用いる黄金は旧例では莫大な額であったが、王莽は強く辞退し、一部のみを受け、残りを媵家や一族の貧者へ分け与えた。

夏:制度改革の提案

  • 夏、安漢公王莽は車服制度、官民の日常生活・葬送・婚姻・奴婢・田宅・器械の等級を定め、さらに官稷を設けるよう上奏した。郡国・県邑・郷聚にも学校官を置かせた。
  • 大司徒司直陳崇は、張敞の孫の張竦に草案を書かせ、王莽の功徳を盛んに称え、周公に準じて封国・称号・子弟への恩賞を加えるべきだと論じた。太后は群公に示して審議させた。

呂寬事件と衛氏粛清

  • この頃、王莽の長子王宇は、父が衛氏を排斥し続けることで将来禍いが及ぶのを恐れ、密かに衛后の一族と連絡を取り、衛后に上書させて恩謝と旧悪の陳述を行わせ、中山孝王后への加恩を引き出した。
  • しかし衛后がなおも入京を願うと、王莽はこれを許さなかった。王宇は師の呉章や妻の兄呂寬と相談し、王莽が鬼神を信じる性質を利用して怪異で脅そうとした。
  • 呂寬が夜に血を王莽邸の門へ撒いたところ発覚し、王宇は捕らえられて獄に送られ、毒を飲まされて死んだ。王宇の妻焉懐は妊娠中であったため出産を待たれたが、子を生むとともに母子とも殺された。
  • 甄邯らは、王莽が周公の位にありながら管蔡を誅したのと同様に、大義のため親族を罰したと太后に奏上し、詔が下った。王莽は衛氏の支族をほぼ根絶やしにし、衛后だけを残した。
  • 呉章は腰斬のうえ屍を裂いて東市門にさらされた。呉章は当代の名儒で弟子も多かったが、王莽はその門人を党与とみなし、仕官を禁じた。門人たちは師弟関係を隠すため師を替えた。
  • ただし平陵の雲敞は、自ら呉章の弟子であると名乗り出て、遺体を収めて葬ったため、都で称賛された。

反対派の徹底排除

  • 王莽は呂寬の獄を口実に党与を徹底追及し、以前から憎んでいた者まで連座させて誅殺した。
  • 元帝の妹の敬武長公主、王莽の叔父の紅陽侯王立、剛直で知られた平阿侯王仁らは、いずれも太皇太后の詔を名目に使者を送られて自殺を強いられた。太后が敬武長公主の喪に臨もうとしても、王莽は押しとどめた。
  • 甄豐は郡国に使者を飛ばし、衛氏の党与だけでなく、地方豪傑や漢に忠実で王莽に従わない直臣をも罪に陥れて殺した。何武・鮑宣・王安・辛通・辛遵・辛茂・辛伯らがその犠牲となり、死者は数百人に及んだ。
  • 海内は震え上がった。北海の逢萌は「三綱は絶えた」と言い、冠を東都門に掛けて去り、家族を連れて海を渡り、遼東へ避難した。

後継・祭祀をめぐる議論

  • 王莽は礼に明るい少府宗伯鳳を召して、後継として他家を継ぐ者は私親を顧みるべきでないという義理を説かせ、公卿・将軍・侍中・朝臣に聴講させた。これは内には天子を戒め、外には民の議論を抑えるためだった。
  • 秺侯金日磾の家と都成侯金安上の家で断絶が起きると、王莽はその縁者に継承させようとしたが、京兆尹金欽は私親への祭祀を主張した。甄邯は廷上でこれを叱責し、不孝・大不敬として下獄させ、自殺に追い込んだ。甄邯は公正無私としてさらに加封された。

鍾元・厳詡・何並

  • この年、潁川の鍾元が大理となり、陵陽の厳詡が潁川太守となっていた。厳詡は温厚で掾史を師友のように扱い、自責をもって治めたが、世情の乱れには柔弱では足りないと見られた。
  • 王莽が厳詡を徴した際、郡吏たちは盛大に送別したが、厳詡は「自分の身を憂うのではなく、後任に剛猛な者が来れば士民に犠牲が出るのを悲しむ」と泣いた。
  • 厳詡は「美俗使者」とされ、代わって隴西太守何並が潁川太守となると、鍾元の弟や陽翟の軽侠を捕らえて処刑し、郡中を震え上がらせた。