資治通鑑漢紀二十七 孝平皇帝上 元始二年 元始二年 二年 2年

春 黄支国の献上と孫宝の諫止

  • 春、黄支国が犀牛を献じた。黄支は南海中にあり、京師から三万里という遠国であった。王莽は威徳を誇示するため、その王に厚い贈り物をして、あえて使者を派遣させた。
  • 越巂郡では黄龍が江中に現れたとされ、太師孔光・大司徒馬宮らは王莽の功徳を周公になぞらえ、宗廟への告祠を行うべきだと唱えた。
  • これに対して大司農孫宝は、周公ほどの聖者、召公ほどの賢者でさえ互いに不悦があったのだから、今なお風雨は時を得ず百姓も足りないのに、群臣が何事につけ同じ声で王莽を称えるのは、実のない阿附ではないかと公然と異議を唱えた。群臣はみな顔色を失った。
  • まもなく孫宝は、病気の母を迎える件で妻子だけを遣わしたことを司直陳崇に弾劾され、三公の取調べに付された。老耄で供養の心が衰えたと自弁したが、ついに免官され、家で死んだ。

三月・四月 平帝改名と諸王復立

  • 帝は名を衎に改めた。
  • 三月癸酉、大司空王崇は病を理由に免官し、王莽を避けた。
  • 夏四月丁酉、甄豊が大司空、孫建が左将軍、甄邯が右将軍となった。
  • また、代孝王の玄孫の子如意を広宗王、江都易王の孫盱台侯宮を広川王、広川恵王の曾孫倫を広徳王に立て、絶えた諸王家を継がせた。
  • 漢興以来の大功臣の後裔、たとえば周勃の玄孫周共ら百十七人にも列侯・関内侯の爵が与えられた。

大旱蝗と王莽の偽りの倹約

  • この年、郡国は大旱と蝗害に見舞われ、青州で特にひどく、民は流亡した。
  • 王莽は太后に奏して、文様のない繒練を着て膳を減らし、天下に倹約を示すべきだと述べた。さらに自ら百万銭と田三十頃を大司農に付して貧民救済にあてたいと願い、公卿もこれにならって田宅を献じる者が二百三十人に達した。
  • それらは貧民へ口数に応じて分け与えられ、長安城中の五里に二百区の住宅も造られて貧民の居所とされた。
  • 王莽は群臣に奏上させ、近ごろ風雨が時を得て甘露・神芝・蓂莢・朱草・嘉禾などの祥瑞が並んでいるとして、太后に常服・常膳へ戻るよう勧めたが、太后は許さなかった。
  • 水害や旱魃のたびに王莽は菜食し、左右がそれを太后に伝えると、太后は「公は民を憂えて菜食しているが、今年は実りそうだから肉を食して身を愛し国のために尽くせ」と詔した。

六月以後 高士の退隠と梅福の失踪

  • 六月、鉅鹿に隕石が二つ落ちた。
  • 光禄大夫龔勝と太中大夫邴漢は、王莽の専政を見てともに致仕を願い出た。王莽は太后に策詔を出させ、優礼をもって帰郷させた。
  • 梅福は、王莽が必ず漢を簒うと見抜き、一朝にして妻子を捨てて去り、行方知れずとなった。後に会稽で姓名を変え、呉の市門の門卒になっていたという。

秋九月 江湖の賊を説諭

  • 秋九月戊申晦、日食があり、天下の徒を赦した。
  • 執金吾の属官である侯陳茂が派遣され、江湖の賊成重ら二百余人を説得したところ、彼らは皆みずから出頭し、家族も本属の県邑へ送って処置を受けた。成重は雲陽へ移され、公田と住宅を賜った。

対匈奴政策の硬化と西域事件

  • 王莽は太后を喜ばせ、また威徳を誇るため、単于に働きかけて王昭君の娘・須卜居次云を入朝させ、太后に侍らせた。そのため単于への賞賜はきわめて厚かった。
  • 一方で、西域では車師後王国に玉門関へ通じる新道があり、戊己校尉徐普はその道を開こうとして、関路供給を担う車師後王の姑句を境界証明のため召した。姑句が応じないので拘束すると、妻の股紫陬は「昔も車師前王は都護司馬に殺された。長く拘束されれば必ず死ぬ」と言い、姑句は高昌壁を突破して匈奴へ逃れた。
  • また婼羌の去胡来王唐兠は、赤水羌との争いで苦しみ都護但欽に救援を求めたが、時宜にかなった助けを得られなかった。そこで玉門関を守る漢側を怨み、妻子人民千余人を率いて匈奴へ降った。単于はこれを左谷蠡王の地に置いた。
  • 王莽は使者を送って単于を責め、単于は叩頭して謝罪し、姑句・唐兠の二人を使者に引き渡した。さらに赦免を願ったが、王莽は許さず、西域諸国王を集めて軍陣の前で二人を斬らせ、後の戒めとした。

匈奴への「四条」と単于改名

  • 王莽は新たに四条の禁令を設けた。すなわち、中国人で匈奴へ逃げた者、烏孫から匈奴へ降った者、西域諸国で漢の印綬を帯びながら匈奴へ降った者、烏桓で匈奴へ降った者は、いずれも受け入れてはならないというものである。
  • 中郎将王駿・王昌、副校尉甄阜・王尋を匈奴へ派遣し、この四条を単于に頒布し、あわせて宣帝以来の旧約文書を回収した。
  • また王莽は、中国に二名があるのはよくないとする自身の好みに従い、使者に命じて単于にも改名を勧めた。単于はこれに従い、もとの囊知牙斯を改めて知と名乗り、「太平の聖制を慕って名を一つにする」と上書した。王莽は大いに喜び、太后に奏して厚く褒賞させた。

王莽、皇后擁立をめぐって自家の権を固める

  • 王莽は自分の娘を平帝の皇后にして権勢を固定しようとし、皇帝即位三年にもかかわらず長秋宮が未建で、媵も満たされていないとして、五経に基づく立后の礼を定め、十二女の制を整え、二王後・周公・孔子の後裔、列侯で長安にある家々の嫡女を広く選ぶよう願い出た。
  • だが王氏の女子が多く候補に入ると、王莽は他家の女子と競うことを恐れ、自分には徳もなく娘の器量も劣るから王氏女は選ぶべきでないと上書した。太后はその誠実ぶりに感じて、王氏女を除外する詔を出した。
  • すると庶民・諸生・郎吏以上で守闕上書する者が日に千余人に及び、公卿大夫も廷中や省門の下に伏して、「安漢公の盛徳かくのごとし。今、后を立てるのにその女を除くとは、天下は何を頼みに帰すべきか。公女こそ天下の母となるべきだ」と主張した。
  • 王莽は長史以下に命じて人々を諭し止めさせたが、上書はますます増えた。ついに太后はやむなく公卿に王莽の娘を採ることを許した。
  • それでも王莽はなお、広く諸女を採るべきだと自ら装ったが、公卿は「諸女を採れば正統を二にする」と争って反対した。王莽はそこで改めて自分の娘を見せるよう求めたところで、この巻の記事は終わる。