資治通鑑漢紀二十七 孝哀皇帝下 元壽元年 元壽元年 一年 前2年

春正月 日食と人材登用の詔

  • 春正月朔、哀帝は将軍・中二千石・右曹に対し、兵法に通じた者をそれぞれ一人ずつ推薦させた。その流れで、孔郷侯傅晏を大司馬衛将軍、陽安侯丁明を大司馬驃騎将軍に任じた。これは息夫躬の進言によるものだった。
  • 同日、日食が起こったため、哀帝は公卿大夫に過失を率直に述べさせ、さらに賢良方正で直言できる者の推薦を命じ、大赦を行った。

王嘉の諫言

  • 丞相王嘉は上封事して、元帝・成帝の時代は倹約が守られ、外戚や寵臣にも限度があったので、国家財政は安定し、凶年や羌の反乱があっても持ちこたえられたと回顧した。
  • これに対して現在は、董賢のために官舎や邸宅を造営し、園池に水を引き、工事監督の使者や吏卒への褒賞まで宗廟造営以上に厚く、母の病にも官の厨房が供物を出し、道中の者まで飲食にあずかる状態だと批判した。
  • また、董賢の一族や賓客の婚礼・親族の会見にまで諸官が動員され、倉頭や奴婢にまで一人十万銭が与えられ、市場の物資調達のため商人が震え上がり、ついには苑地二千余頃まで下賜されて均田制が壊れたと論じた。
  • 王嘉は、このような寵愛は鄧通・韓嫣のように本人をも害すると述べ、前代の失敗を鏡として董賢への恩寵を節制するよう求めた。これにより哀帝は王嘉を次第に疎んじるようになった。

杜鄴の対策と外戚偏重批判

  • かつて涼州刺史杜鄴が方正の対策で、陰陽の理を引き、女系外戚や外家への偏愛は国を危うくすると論じていたことが改めて問題視された。鄭伯と姜氏、周襄王と恵后、呂太后の例を挙げ、外戚の専権は社稷を揺るがすと説いた。
  • 杜鄴は、丁氏・傅氏の一族が賢不肖を問わず枢要に列し、兵権と官爵を握っていること、しかもその任命の日に日食が起きたことは、まさに天の戒めだと論じていた。
  • 哀帝はさらに孔光を召して日食について諮問し、光禄大夫・給事中として中二千石の秩を与え、丞相に次ぐ地位に置いた。

王莽の再起と丁傅勢力の失脚

  • 王莽はかつて国に帰されていたが、そのあいだ厳格に身を修め、子の王獲が奴を殺した際には自殺させたため、吏民の間で評価が高まり、百以上の上書がその復帰を求めていた。さらに周護・宋崇らも対策で王莽の功徳を称えた。
  • そこで哀帝は王莽と平阿侯王仁を京師に召し、太皇太后に仕えさせた。
  • 董賢は日食の変を利用して傅晏・息夫躬の策をくじき、辛卯に傅晏は印綬を収められて罷免された。
  • 丁巳、皇太太后傅氏が崩じ、渭陵に合葬されて孝元傅皇后と称された。
  • 丞相・御史は息夫躬と孫寵の罪過を奏上し、二人は免官のうえ本国へ追われた。さらに侍中・諸曹黄門郎数十人も罷免され、丁氏・傅氏の党与は大きく退潮した。

鮑宣の上書

  • 鮑宣は、日食が年・月・日の三始に起こったことを重大視し、天・地・民の三者がともに乱れていると上書した。
  • 哀帝が外戚や素餐の者を退け、孔光を徴用し、孫寵・息夫躬を処分したこと自体は民心を悦ばせたが、二月丙戌の白虹贯日や長雨・不雨は、なお怨みが収まっていない証拠だと述べた。
  • その原因として、董賢が本来は縁戚でもないのに寵愛で権勢を極め、宮廷の器物や貢献物が董氏に流れ、父子が天子の使者を使役し、大工を動員して邸宅を造営し、上冢のたびに太官が供奉していることを挙げた。
  • 鮑宣は、董賢を本当に思うならば謝過して国に帰し、乗輿の器物を官に返させるべきであり、さらに孫寵・息夫躬も罷免して、何武・師丹・彭宣・傅喜らを再起用すべきだと主張した。
  • 哀帝は深く感じ入り、何武・彭宣を徴し、鮑宣を司隷に任じた。
  • ただしその一方で、傅太后の遺詔を名目として、太皇太后に命じ、董賢に二千戸を加増し、孔郷侯・汝昌侯・陽新侯に国邑を与えようとした。

王嘉、董賢加封の詔を封還

  • 王嘉はこの詔書を封還し、爵禄や土地は天のものであり、徳なき者に裂地して与えれば人心は服さず、災異もさらに深まると強く諫めた。
  • 董賢は佞幸の臣であり、位・富・器物・宮殿造営にいたるまで至尊を損ねて寵愛している、文帝が露台を造らなかった節倹と比べれば、今は公賦を私恩に流していると批判した。
  • また、太皇太后が傅太后の遺詔を理由に董賢へ加封し三侯に国を賜るのは、日食・地震が示す「陰が陽を侵す」戒めに逆らうものだと論じた。
  • 王嘉は「詔を封じて返すが、自ら弾劾はしない。天下に知られて動揺を招くのを恐れるからだ」と述べた。

梁相らをめぐる追及と王嘉下獄

  • 以前、東平王劉雲の獄を扱った梁相ら三人は、冬のうちに拙速に処断せず、長安へ送って公卿に再審させようとしたが、これを哀帝は不忠として退けていた。後に王嘉は、大赦のあと彼らに才能・行実があるとして朝廷のために惜しむと上奏した。
  • この件と董賢加封の詔封還が重なり、哀帝は激怒して王嘉を尚書に召し詰問した。孔光らも王嘉を「国を惑わし上を欺く」と弾劾し、廷尉の詔獄に下した。
  • 議郎龔らは爵土を奪って庶人に落とすべきとし、永信少府猛らは大臣を裸にして笞つような屈辱は国家の体面を傷つけると述べたが、哀帝は聞き入れなかった。
  • 使者が丞相府に来ると、掾史たちは涙して毒薬を差し出し、前例どおり自裁するよう勧めたが、王嘉は「丞相が女や子どものように毒を飲んで死ねようか。都市で刑に伏して万人に示すべきだ」と言って拒み、朝服で出て使者に拝して廷尉に赴いた。
  • 詔獄で王嘉は、梁相らは慎重に獄を扱ったのであり、私情でかばったのではないと弁明した。さらに、自分の真の罪は「賢人たる孔光・何武を進めず、董賢父子の朝政を乱すのを退けられなかったことだ」と語った。
  • 王嘉は二十余日獄につながれ、食を絶ち、血を吐いて死んだ。のちに哀帝はその供述を読み返して王嘉の言葉を思い返した。

孔光・何武・彭宣の起用と董賢の専権

  • 御史大夫賈延が免ぜられると、五月乙卯に孔光が御史大夫、秋七月丙午には丞相となり、博山侯の旧国も復された。
  • さらに汜郷侯何武が御史大夫となり、哀帝は孔光罷免が近臣の誹謗によるもので無罪だったと知り、傅嘉を庶人として故郡に帰した。
  • 八月、何武は前将軍に移り、辛卯に彭宣が御史大夫となった。
  • 司隷鮑宣は、丞相孔光の外出に際し馳道でその属官を取り締まり、使者の逮捕も拒んだため、丞相を辱めたとして髠鉗に減刑された。
  • 大司馬丁明はもと王嘉を重んじ、その死を憐れんだため、九月乙卯に冊免されて家に帰された。
  • 冬十一月壬午、故定陶太傅韋賞が大司馬車騎将軍となったが、己丑に卒去した。
  • 十二月庚子、侍中・駙馬都尉董賢が大司馬衛将軍に任じられた。賢はまだ二十二歳であったが、なお給事中として禁中にあり、尚書事も統轄し、百官は皆まず董賢を通して奏事した。
  • 父董恭は光禄大夫に移され、弟董寬信が駙馬都尉を継ぎ、董氏一門は侍中・諸曹・奉朝請に列し、その寵は丁氏・傅氏をもしのいだ。

孔光のへりくだりと王閎の諫言

  • 哀帝は、董賢が丞相孔光を私訪した際の応対を試した。孔光はあらかじめ衣冠を正して門外で待ち、賢の車が見えるといったん退き、賢が中門に至ってから閣に入り、賢が下車した後に出て拝謁し、送迎も極めて恭謹に行った。哀帝はこれを喜び、孔光の兄の子二人を諫大夫・常侍に抜擢した。
  • こうして董賢の権は人主に匹敵するほどとなった。
  • 董恭は、子董寛信のために中郎将蕭咸の娘を求めたが、咸は「董公の冊文にある『允執其中』は堯が舜に天下を譲る際の文句であり、三公任命の常例ではない。長老はみな心配している」と、王閎に密かに語った。
  • 王閎もその意味を悟って董恭に伝えたが、董恭は喜ばなかった。
  • のちに麒麟殿の宴席で、哀帝が酒気の中で董賢を見て「自分は堯のように舜に禅譲したい」と笑うと、王閎は「天下は高帝の天下であって陛下個人の所有ではない。宗廟を承けて子孫に伝えるのが重い務めであり、天子に戯言は許されない」と諫めた。
  • 哀帝は黙って不快となり、王閎を郎署へ退けた。のち太皇太后の取りなしで復帰した。
  • 王閎はさらに上書し、董賢には漢朝への功も肺腑の縁も高行もないのに鼎足たる三公に昇り、父子兄弟へ過度の賞賜が行われているのは天心にかなわないと諫めた。哀帝は従わなかったが、その若さにして気概があることは評価し、罪には問わなかった。