資治通鑑漢紀二十七 孝哀皇帝下 元壽二年 二年 前1年
春正月 匈奴・烏孫の朝賀
- 春正月、匈奴単于と烏孫の大昆弥伊秩靡が来朝し、漢はこれを大いに栄誉とした。
- 当時、西域では五十国が漢に服し、通訳長から将相・侯王に至るまで漢の印綬を帯びる者は三百七十六人に上った。康居・大月氏・安息・罽賓・烏弋などの遠国は都護の直接統轄外にあった。
- 黄龍年間以来、単于来朝時の賞賜は年々厚くなっていた。宴見の席で単于が董賢の若さを怪しむと、哀帝は「大賢ゆえにこの位にある」と通訳させ、単于は立って漢の得臣を賀した。
- この年、太歳の厭勝の方位の関係で、単于は上林苑の蒲陶宮に宿され、漢が特別の敬意を払ったことを知ったが、かえって不快に感じた。
夏四月・五月 三公官の整備
- 夏四月壬辰晦、日食があった。
- 五月甲子、綏和年間に置かれた三公官をあらためて正し、職掌を分けた。董賢が大司馬、孔光が大司徒、彭宣が大司空となり、彭宣は長平侯に封じられた。
六月 哀帝崩御と董賢失脚
- 六月戊午、哀帝は未央宮で崩じた。二十五歳であった。即位後は王氏の専権を嫌って大臣をしばしば誅し、武帝・宣帝にならって主威を強めようとしたが、讒臣を信じ忠直の士を憎んだため、漢室の衰えを進めたと評される。
- 太皇太后は崩御を聞くや当日中に未央宮へ赴き、璽綬を収めた。大司馬董賢を東箱に引見して喪事の手配を問うたが、賢は狼狽して答えられず、免冠して謝るばかりであった。
- 太皇太后は「新都侯王莽は先帝の大喪を奉送した経験があり、故事に明るい」として、王莽を補佐に付けることを決め、急使で召した。さらに兵符・節、百官奏事、中黄門・期門兵などをすべて王莽の統轄下に置いた。
- 王莽は太后の指示を受け、尚書に董賢を弾劾させ、帝の病に際して親しく医薬に当たらなかったとし、宮殿司馬中への出入りを禁じた。董賢はどうしてよいかわからず、徒跣で宮門に至って謝罪した。
- 己未、王莽は謁者に太后の詔を持たせ、宮門下で董賢を冊免した。理由は「年少で事理に経験がなく、大司馬として衆心にかなわない」というもので、その日のうちに董賢は妻とともに自殺した。
- 家では夜のうちにひそかに葬ったが、王莽は偽死を疑い、棺を獄に運んで検視させ、そのまま獄中に埋めた。
王莽の大司馬就任と後継擁立
- 太皇太后は公卿に大司馬にふさわしい者を挙げさせた。多くは王莽を推したが、何武と公孫禄の二人だけは、幼主を立てる時に外戚大臣へ権を集中させるのは危険だとして、互いを推挙した。
- しかし庚申、太皇太后はみずから王莽を大司馬・領尚書事に任じた。
- 太皇太后と王莽は嗣立を議し、王莽の従弟で太后に信任される王舜を車騎将軍としたうえで、七月、中山王劉箕子を迎えて後嗣とすることに決した。
七月以後 傅氏・丁氏・趙氏・董氏の整理
- 王莽は太皇太后に請い、皇太后趙氏とその妹昭儀が専寵によって後宮を塞ぎ、皇嗣を絶ったとして、趙氏を孝成皇后へ降格し北宮へ移した。
- さらに定陶共王太后傅氏と孔郷侯傅晏が、恩を忘れ本を背き、専恣不軌であったとして、孝哀皇后を桂宮へ退け、傅氏・丁氏は官爵を奪って故郡へ帰した。
- 傅晏が妻子を率いて合浦へ向かう一方、王莽は傅喜だけは忠直で邪に従わなかったとして特に褒め、長安へ戻して特進・奉朝請とした。だが傅喜は孤立を憂えて、後には再び本国へ下された。
- 王莽は傅太后の号を定陶共王母に、丁太后を丁姫に貶めた。
- また董賢父子の驕恣・奢僭を奏上し、その財産を没収して官に入れ、董恭・董寛信と家属を合浦へ、母を鉅鹿へ帰した。長安の小民は董氏の邸に群がって泣くふりをし、盗みを働こうとした。
- 没収財産は総計四十三万万に及んだ。董賢に厚遇されていた吏の朱詡が棺と衣を買って遺体を葬ると、王莽は別件をもってこれを殺した。
王莽、孔光を利用して政敵を排除
- 王莽は、名儒で三主に仕えた孔光が太后に敬われ天下にも信頼されていることを利用し、非常に手厚く遇した。娘婿甄邯を侍中・奉車都尉に取り立て、自分の嫌う者の罪案を作らせ、孔光に太后の意向として上奏させた。孔光は慎み深く恐れて逆らえなかった。
- こうして何武・公孫禄が互いを薦めたことを「私相称挙」として免官し、董宏の子高昌侯董武の爵を奪い、さらに母将隆・張由・史立・丁玄・趙昌ら、以前の中山獄や鄭崇事件などに関わった人物を次々と庶人に落として合浦へ流した。
- とくに母将隆は、かつて王莽が若いころ交わりを求めたのに十分従わなかったため、旧怨で陥れられたとされる。
- 紅陽侯王立は太后の弟であったが、王莽が自在に振る舞う妨げとなるのを恐れられた。孔光にその罪状を上奏させ、「以前に定陵侯淳于長の大逆を知って言い誤り、また官婢楊寄の私子を皇子と称したため、呂氏少帝のような疑いを天下に生じさせた」として、ついに本国へ追われた。
- 王莽はこのようにして上下を脅し、従う者を抜擢し、逆らう者を誅滅した。王舜・王邑を腹心、甄豊・甄邯を弾圧の実務、平晏を機密、劉秀を文章、孫建を爪牙として体制を固めた。
八月以後 皇后廃位・彭宣退場・平帝即位
- 八月、王莽はさらに太皇太后に請い、成帝・哀帝両后を庶人としてそれぞれの園に退けた。この日、二人はともに自殺した。
- 大司空彭宣は、王莽の専権を見て「三公は鼎足で、一足が任に堪えねば中身を覆す」と上書し、病老を理由に印綬を返して退職を願った。王莽は太后に奏してこれを免じたが、黄金や安車駟馬は与えなかった。
- 戊午、右将軍王崇が大司空となり、東海の馬宮が右将軍、甄豊が光禄勲となった。
- 九月辛酉、中山王劉箕子が即位し、平帝となった。年九歳で、太皇太后が臨朝し、大司馬王莽が政務を執った。百官は各々の職掌を総べて王莽の判断を仰いだ。
- 孔光は危惧して致仕を求めたが、王莽は「帝が幼少ゆえ師傅が必要」として、孔光を帝太傅・四輔の位に移し、禁中宿衛・供養・門戸・服御食物の監督を 맡せた。
- 馬宮は大司徒、甄豊は右将軍となった。
- 冬十月壬寅、孝哀皇帝を義陵に葬った。紀には九月とあるが、注は十月が正しいとする。