資治通鑑漢紀二十七 孝平皇帝上 元始元年 元始元年 一年 1年
春正月 白雉献上と安漢公号
- 春正月、王莽は益州方面に働きかけ、塞外の蛮夷に「越裳氏」と称させて重訳で白雉一・黒雉二を献上させた。これは周公の時代の祥瑞になぞらえ、自らの徳を誇示するための演出とみられる。
- 王莽は太后に奏して白雉を宗廟に薦めさせた。群臣はこぞって王莽の功徳を称え、周成王の時に白雉が来た故事、また周公が生前に美号を受けたとする議論を引き、王莽に「安漢公」の号を賜い、戸数と爵邑も増すべきだと述べた。
- 太后は尚書に具体案を作らせたが、王莽は上書して、自分ではなく孔光・王舜・甄豊・甄邯らの功績を列挙して賞すべきであり、自分は列に加えないでほしいと辞退した。
- 甄邯は「王道は偏らない」と『尚書』を引いて、宗廟安定の大功は骨肉だからといって隠すべきではないと主張した。王莽は数度固辞し、病と称して起きなかったが、左右が太后に「無理に奪うべきではない」と伝えると、まず孔光らだけを賞することになった。
- 二月丙辰、太后は孔光を太師、王舜を太保としてともに一万戸を加封し、甄豊を少傅・広陽侯、甄邯を承陽侯とし、四輔の職に就けた。
- その後も群臣が王莽への加賞を求め続けたため、太后はついに王莽を太傅とし、四輔の事を総べさせ、号して安漢公とし、二万八千戸を益封した。王莽はやむなく受けたが、「百姓が家給となってから賞を受けたい」と述べて益封自体はなお辞退した。
- 太后はその意を容れつつも、俸禄・常賜は旧例の倍とし、将来、百姓が家給人足となった時に大司徒・大司空に奏聞させることにした。王莽はそれも受けず、代わりに宗室や群臣への褒賞を提案した。
宗室・群臣への広範な恩典
- 王莽の提案により、故東平王劉雲の太子開明を東平王に復し、故中山孝王の後を成都に継がせた。
- また宣帝の耳孫信ら三十六人を列侯に封じ、太僕王惲ら二十五人には関内侯の爵を与えた。これは、定陶傅太后の尊号問題で経義を守り邪に阿らなかった者への褒賞であった。
- 諸侯王・公・列侯・関内侯で子がなくても孫や同母兄弟の子を嗣とできるようにし、宗室の属籍を罪で絶たれた者にも復属を許した。
- 比二千石以上の高齢退官者には、旧禄の三分の一を終身給付し、下は庶民の鰥寡にまで恩沢を及ぼした。
王莽、吏民への恩顧と権力集中
- 王莽は吏民を悦ばせる一方で、政務の決裁を専らにしようとした。太后が高齢で政務を嫌っていることを見て、公卿に奏上させ、今後は封爵以外は安漢公と四輔が決裁し、州牧・二千石・茂材の新任者は王莽の前に引見して、旧官での成績や新職での構想を問い、その適否を判断する制度を整えた。
- 王莽は一人ひとりに密かに恩意を示し、贈り物を厚く与え、自分の意に合わない者は目立つかたちで罷免した。
- さらに羲和官を置き、秩二千石とした。
夏五月・六月 日食と衛氏の排除
- 夏五月丁巳朔、日食があり、大赦して公卿以下に敦厚で直言できる者の推薦を命じた。
- 王莽は平帝の外家である衛氏が将来その権を奪うことを恐れ、太后に奏して、前の哀帝が外家丁氏・傅氏を重んじて国を乱した前例を挙げ、平帝は大宗を奉じて成帝の後となるのだから、一統の義を明らかにし、私親を顧みるべきでないとした。
- 六月、甄豊に璽綬を持たせ、中山の帝母衛姬を中山孝王后に拝し、帝舅衛宝とその弟衛玄に関内侯、帝の妹三人にそれぞれ君号を与えたが、いずれも中山に留めて京師へ来させなかった。
申屠剛の諫言
- 扶風功曹申屠剛は、直言の対策で、成王幼少の時ですら周公摂政には召公の不悦や四国の流言があったのだから、今のように天子が幼く、至親が引き離され、外戚が隔てられているのは危ういと述べた。
- そして中山太后を別宮に迎え、時に朝見させ、馮氏・衛氏の二族にも閑職ながら宿衛に参与させて、宗廟を安んじ保傅を全うすべきだと建言した。
- 王莽は太后に詔を出させ、「経義に背き、大義に違う僻説だ」として申屠剛を罷免して郷里へ帰した。
周公・孔子の後裔優遇と民への施策
- 丙午、魯頃公の八世孫公子寛を褒魯侯として周公の祀りを奉じさせ、褒成君孔霸の曾孫孔均を褒成侯として孔子の祀りを奉じさせた。
- また天下の女徒で判決済みの者を帰宅させ、「雇山銭」として月三百銭を納めさせる制度に改めた。これは本来の労役を金納化したもので、婦人への恩徳を示す政策とされた。
- さらに「貞婦の郷里から一人」を褒賞対象として選び、大司農部丞十三人に一州ずつ分担させて農桑を奨励した。
- 秋九月には、天下の徒を赦した。