春正月 傅氏・丁氏と大臣の対立
- 春正月、牽牛のあたりに彗星が現れた。
- 丁氏・傅氏の一族はおごり高ぶり、傅喜のつつましさをねたんでいた。傅太后は自らの尊号を成帝の母と同格に高めようと望んだが、傅喜・孔光・師丹はこれに反対した。
- 哀帝は大臣の正論を重んじつつも、内廷では傅太后の圧力を受け、長く態度を決めかねた。傅太后は怒り、帝はまず師丹を罷免して傅喜を動かそうとしたが、傅喜は最後まで同調しなかった。
朱博の策動と傅喜の失脚
- 朱博は孔郷侯傅晏と結んで、傅太后の尊号問題を実現しようと図り、たびたび内々に奏上して傅喜と孔光を中傷した。
- 丁丑の日、帝はついに傅喜を策書で罷免し、侯のまま私第に退かせた。
- 当時、御史大夫を廃して大司空を置いていたが、三公の職掌がかえって曖昧だという議論が多かった。朱博は旧制復帰を主張し、郡国の守相から中二千石、中二千石から御史大夫、さらに丞相へと進む序列こそ国政を重んじる道だと論じた。
夏四月 官制復旧と傅氏の専横
- 夏四月戊午、朱博は御史大夫に任じられ、丁太后の兄の陽安侯丁明は大司馬衛将軍となった。大司馬の官属も旧例どおり整えられた。
- 傅太后は自ら丞相と御史大夫に命じ、傅喜は下にへつらい上を欺き、師丹と結んで命令に背いたとして、朝請に列することを許さず、国へ追いやらせた。
- 孔光もまた、継嗣問題や傅太后の居所・尊号をめぐって傅太后の意に逆らっていたため、傅氏の在官者たちが朱博と内外から結んで失脚させようとした。
孔光免官・朱博丞相就任
- 乙亥の日、孔光は策書によって免官され、庶人とされた。朱博が丞相に昇進し、陽郷侯に封じられ、少府趙玄が御史大夫となった。
- 朱博と趙玄が延殿に登って策書を受けた際、殿中に鐘のような大音響が起こり、近侍の郎吏たちもこれを聞いた。
- 帝が揚雄と李尋に意味を問うと、二人はともにこれを「鼓妖」と判断した。君主が聡明さを失い、虚名の者が実体なく進用されると起こる異変で、執政大臣が災いを受ける前兆だという。
- 李尋は、丞相・御史大夫を退けて天変に応じるべきだとし、そうしなくとも一年以内に当人が禍を受けるだろうと述べた。揚雄も、朱博は将には向くが相には向かず、急激で凶険な怒りを招くおそれがあると戒めたが、帝は従わなかった。
定陶共皇の追尊と四太后の体制
- 朱博が丞相になると、帝はその議に従って詔を下し、定陶共皇の号から「定陶」を除き、共皇太后を帝太太后、共皇后を帝太后とした。さらに共皇のために京師に寝廟を立て、制度を宣帝の父・悼皇考になぞらえた。
- これにより、太皇太后・趙太后・傅太后・丁太后の四太后それぞれに少府・太僕が置かれ、秩は中二千石となった。
- 傅太后は尊号を得るとますます驕り、太皇太后との会話で無礼な呼び方をすることさえあった。
- 丁氏・傅氏はこの一、二年で急に栄え、公卿や列侯となる者が非常に多く出たが、哀帝はなお王氏全盛期ほどには彼らに大きな権勢を与えなかった。
王氏への追撃
- 朱博と趙玄は、かつて高昌侯王宏が尊号を最初に唱えたのに、師丹の弾劾で庶人に落とされたのは不当だとし、いま帝が尊号を正した以上、王宏を復封し、逆に師丹は尊号を損ね孝道を害したとして爵位を奪うよう奏請した。帝はこれを許した。
- さらに、王莽が大司馬のときに尊尊の義を広めず尊号を抑えたとして、朱博らは王莽の免爵も求めた。帝は、王莽は皇太后の一族に属するため庶人にはしないが、国へ帰すとした。
- 平阿侯王仁や、趙昭儀の親族をかくまっていた者たちも国へ追い返された。
- このため、天下では王氏が冤罪を受けているとの声が多くなった。
楊宣の上疏と王商家の復封
- 諫大夫楊宣は上封事し、成帝は哀帝に宗廟を託し、王氏を補佐させようとしたはずだと論じた。太皇太后は高齢のうえ度重なる喪に遭い、親族まで丁氏・傅氏を避けて身を引いているのは、人々が涙するほどのことだと訴えた。
- また、成帝陵を遠望して恥じないのかと帝を諫めた。
- 哀帝は深く感じ入り、故成都侯王商の仲子・邑を成都侯に復封した。
州牧廃止・刺史復活
- 朱博は、刺史は秩が低くても賞が厚く、功を励む仕組みになっていたのに、州牧に改めて真二千石とし九卿に準ずる地位を与えた結果、中材の者は保身に流れ、実績が衰え、奸悪を取り締まれなくなったと論じた。
- 帝はこれを容れ、州牧を廃して再び刺史を置いた。
六月 丁太后崩御
- 六月庚申、帝太后丁氏が崩じた。詔して定陶共皇の園に帰葬させ、陳留・済陰など近郡国から五万人を動員して葬地を築かせた。
甘忠可・夏賀良らの改元工作
- 成帝の時、甘忠可という斉の人が偽って『天官暦包元太平経』を作り、漢は天地の大終に当たり、あらためて天命を受けるべきだと説いて渤海の夏賀良らに教えていた。劉向はこれを鬼神を仮託して君主を欺くものとして弾劾し、甘忠可は獄中で病死した。
- その後も夏賀良らはひそかにこの説を伝えた。哀帝即位後、司隷校尉解光と騎都尉李尋は、賀良らが黄門待詔としてしばしば召され、漢の運命は衰え、成帝が天命に応じなかったから絶嗣となり、いま哀帝が久しく病むのもそのためだと説いていると申し立てた。
- 賀良らは、急いで改元し、称号を変えれば寿命が延び、皇子が生まれ、災異も止むと説いた。
太初元年への改元とその撤回
- 哀帝は長病のなかでその説に望みを託し、大赦を行って建平二年を太初元年と改め、号を「陳聖劉太平皇帝」とし、漏刻も昼夜百二十刻に増やした。
- 秋七月、渭城西北の原上の永陵亭部を初陵と定め、郡国の民を移さないことにした。
- しかし改号からひと月余りたっても病状は変わらず、夏賀良らはさらに政治の大改変を望み、大臣たちは強く反対した。賀良らは丞相と御史大夫を退け、解光と李尋を政務の補佐に当てるよう求めた。
- 哀帝はその言に効験がないと知り、八月に詔して、自分が道を信じること浅く彼らの言を誤って信じたのだと認め、六月甲子の詔書で赦令以外の改制をすべて廃した。
- 夏賀良らは妖説で人心を惑わしたとして下獄され、誅された。李尋と解光も減死され、敦煌へ流された。
- その一方、帝はなお病のため、先代に行われた各種の神祠七百余所をことごとく復活させ、一年の祭祀回数は三万七千にもなった。
傅喜・何武をめぐる朱博の最期
- 傅太后はなお傅喜を恨み、孔郷侯傅晏に丞相朱博をそそのかして、傅喜の侯位剥奪を奏上させようとした。
- 朱博は御史大夫趙玄と議したが、趙玄はすでに前に処分が決しており、重ねて罪科するのは不適当ではないかと述べた。朱博は、すでに傅晏に約束してしまった以上、命を懸けても実行するしかないと言って押し切った。
- 朱博は単独で傅喜を弾劾するのを避け、以前同様に免官されていた何武も同じく在任中に治績がなかったとして、二人とも爵位を奪い庶人とするよう併せて奏上した。
- 帝は、傅太后が傅喜を恨んでいることを知っていたので、朱博と趙玄がその意を受けたのではないかと疑い、趙玄だけを召して取り調べた。趙玄は事実を認めた。
- 左将軍彭宣ら中朝の者が朱博・趙玄・傅晏を弾劾し、不道・不敬とした。帝は趙玄を減刑し、傅晏の食邑を削ったうえで、節を持つ使者を廷尉へ向かわせて丞相朱博を召した。朱博は自殺し、国は除かれた。
九月以後の人事・烏孫と匈奴
- 九月、光禄勲平当が御史大夫となり、冬十月甲寅に丞相へ進んだ。ただし冬で封侯の時期ではないため、ひとまず関内侯の爵を賜った。京兆尹の平陵王嘉が御史大夫となった。
- 哀帝は丁氏・傅氏を爪牙の官に置こうと望み、この年、左将軍彭宣を策書で罷免し、関内侯として帰第させ、光禄勲丁望を左将軍に任じた。
- 烏孫の卑爰疐が匈奴西界を侵して略奪したため、単于が兵を出してこれを撃ち、多数を殺し、千余人をとらえ、牛馬を奪った。卑爰疐は恐れて子の趨逯を人質として匈奴へ送った。
- 漢は、匈奴も烏孫もともに漢の臣であり、単于が勝手に人質を受け取るのは不当だとして責め、返還を命じた。単于は詔に従ってこれを帰した。