資治通鑑漢紀二十五 孝哀皇帝上 建平 元年 前6年
春正月 隕石と成帝の皇子殺害事件の摘発
- 正月、北地に十六個の隕石が落ち、大赦が行われた。
- 司隷校尉解光は、成帝の時代に許美人や中宮の女史曹宮が皇子を産んだのに、その子らが隠されて殺されたと奏上した。
- 曹宮は元延元年に身ごもり、十月に掖庭の牛官令舎で出産したが、中黄門田客が詔記を持って掖庭獄丞籍武に命じ、暴室獄に収容させた。
- 曹宮が児を隠してほしいと訴えたあと、田客は再度詔記を持って現れ、「上と昭儀が大いに怒っている、なぜ殺さないのか」と迫った。籍武は、自分は殺しても殺さなくても死罪だと泣いて訴えたうえで、皇帝に封事を上げ、皇嗣のために児を助けるべきだと述べた。
- すると田客は、児を中黄門王舜に渡し、王舜は乳母として官婢張棄を選んで秘かに養わせた。だが三日後、田客が再び詔記を持ってきて、曹宮に薬を飲ませて殺した。
- 曹宮は死に際し、趙氏が天下を専らにしようとして皇子を殺したのだと恨みを述べた。
- 張棄が養っていた児も、十一月に宮長李南が詔書で取り去り、行方不明になった。
許美人の子の殺害
- 許美人は元延二年十一月に出産した。趙昭儀は、かつて「許氏は皇后にしない」と約束したのに子を産ませたではないか、と成帝を激しく責めた。
- 頭を壁や柱に打ちつけ、床から身を投げ、食も取らず、「私は帰りたい」と泣き叫んだ。
- 成帝がなだめても、趙昭儀は「約に背いた」と責め続けたため、成帝は「趙氏より上位に許氏を立てない約束だ。心配はいらない」と答えた。
- のちに中黄門靳厳が許美人のもとから児を取り上げ、葦の箱に入れて飾室の簾の南へ運んだ。成帝は趙昭儀と二人で戸を閉め、しばらくして宦官を呼び入れ、箱を封じさせたうえで籍武に渡し、「中には死児があるから人知れぬ所に埋めよ」と命じた。籍武は獄楼の垣下に穴を掘って埋めた。
- このほかにも、薬で堕胎させられたり命を落とした後宮の女は数知れなかったという。
- 解光は、かつて長陵の傅夫人の墓を暴いた事件ですら元帝は赦の対象外として徹底的に処罰したのだから、趙氏一族こそ厳しく罪を正すべきだと主張した。
趙氏一門の処分と耿育の反論
- 哀帝はこれを受け、新成侯趙欽と、その兄の子である成陽侯趙訢を庶人に落とし、一族を遼西郡へ移した。
- しかし議郎耿育は、皇嗣が絶えそうな非常時には常法にとらわれぬ措置が必要であり、成帝が哀帝を後継に立てたのは、女主が幼帝を擁して権を握る禍を防ぎ、宗廟を安んじるための深慮だったと論じた。
- 今になって内廷の私事を暴き立てるのは、先帝の隠された過ちをあばき、遠大な配慮を理解しないものだとして、世に布告して成帝の本意を明らかにすべきだと求めた。
- 哀帝も、太子となった自分には趙太后の尽力があったことを考え、この件をそれ以上追究しなかった。傅太后も趙太后に恩を感じ、趙太后も傅太后に心を寄せたため、太皇太后や王氏はこれを怨んだ。
四月 傅喜の大司馬就任
- 丁酉、光禄大夫傅喜を大司馬に任じ、高武侯に封じた。
九月 定陶恭皇・恭皇太后の尊号再議
- 九月甲辰、梁国虞で二個の隕石が落ちた。
- 郎中令泠褒・黄門郎段猶らは、定陶共王の太后・后に、なお「定陶」「共」の藩国名を冠したままなのは不適当であり、車馬・衣服も「皇」にふさわしく改め、官吏を整え、さらに恭皇の廟を京師に建てるべきだと再度上奏した。
- 哀帝はこれをまた群臣に諮った。
- 多くの臣下は、「母は子によって貴くなる」として賛成したが、丞相孔光・大司馬傅喜・大司空師丹は反対した。
- 師丹は、礼は天地の尊卑を正すものであり、太皇太后と並ぶ尊号を藩国の后に与えるのは、一つの天下に二つの最高位を置くことになると論じた。
- また、哀帝は成帝の後を継いで大宗を奉じる以上、定陶恭皇をあらためて私的に京師で祀ることはできず、しかも京師に廟を立てても祭主がなく、親が尽きれば礼に従って廃すべきで、かえって定陶国の太祖廟を空しくするだけだと述べた。
- このため師丹はますます哀帝の意に合わなくなった。
師丹の失脚
- ちょうどこの頃、古くは亀貝を貨幣とし、秦以後の銭貨は民を苦しめるから改幣すべきだとの上書があった。哀帝が師丹に問うと、師丹は一度は賛成した。
- ところが有司が、銭制は久しく行われており急には変えられないと反対すると、老齢で前言を忘れた師丹は再び公卿の議に従って反対に回った。
- さらに師丹が奏章を書かせた際、その草稿を属吏が私に写してしまい、丁氏・傅氏の子弟がそれを聞きつけ、人を使って師丹が封事を漏らしたと訴えた。
- 哀帝が中朝の将軍たちに問うと、皆、大臣の奏事漏洩は不敬だとして廷尉に付すべきと答えた。
- 廷尉は師丹を大不敬で劾奏した。給事中博士申咸・炔欽は、師丹の徳行は並ぶものがなく、草稿漏洩は主簿書吏の過ちであって本人の罪ではない、厳罰では世論が納得しないと上書した。
- 哀帝はこの二人の秩を二等下げたうえで、師丹に策書を与え、「位は高く任は重いのに、詐りと迷いをもって国を乱し、言を翻した」として大司空の印綬を返上させ、罷免した。
- 尚書令唐林は、師丹は経学の宗師であり、過失は小さいのに処分が重すぎるから、朝請できる爵位を回復すべきだと諫言した。
- 哀帝はこれを聞き入れ、関内侯の爵を賜った。
朱博の再起用
- 哀帝は杜業の推挙を受けて朱博を召し出し、再び光禄大夫とし、さらに京兆尹へ進めた。
- 冬十月壬午、朱博を大司空に任じた。
中山王家の冤獄と馮太后の死
- 中山王の子箕子は幼くして病を患い、祖母の馮太后がみずから養育し、たびたび祈祷していた。
- 哀帝は中郎謁者張由を派遣して治療に当たらせたが、張由はもともと狂易の病があり、発作を起こして勝手に長安へ帰った。
- 尚書がその擅去を問いただすと、張由は恐れて、中山太后馮氏が哀帝と傅太后を呪詛していると誣告した。
- 傅太后は、元帝の後宮で馮太后と並んで仕えた旧怨もあって、この告発を利用し、御史丁玄に取り調べさせたが、数十日たっても証拠は得られなかった。
- そこで中謁者令史立に切り替えたところ、史立は傅太后の意を受けて侯封を狙い、馮太后の妹の習や弟婦君之らを拷問し、多数を死なせて、呪詛・弑逆の謀をでっち上げた。
- 史立は馮太后を責め、彼女が屈服しないと、かつて熊が殿上に出た時は勇敢だったのに今はなぜ怯えるのかと侮辱した。
- 馮太后は、これは宮中の言葉であり、役人が知るはずのない内容だから、自分を陥れて証拠にしようとしているのだと悟り、毒を飲んで自殺した。
- 宜郷侯馮参、君之、習とその夫子ら、連座した者の中にも自殺や処刑が相次ぎ、死者は十七人にのぼった。
- 世人はみなこれを憐れみ、司隷孫宝は馮氏の獄を再審すべきだと奏請した。
- 傅太后は激怒し、「司隷は私の馮氏をあばくために置いたのか」と叫び、哀帝に孫宝を罪に陥れさせようとした。
- 哀帝はその意に従って孫宝を下獄したが、尚書僕射唐林がこれに争い、朋党を組んだとして燉煌の魚沢障侯へ左遷された。
- 大司馬傅喜と光禄大夫龔勝も強く争ったため、哀帝は太后に取りなして孫宝を放免し、復職させた。
- 張由は先に告発した功で関内侯に封じられ、史立は中大僕に昇進した。