春正月 諸侯王の継承と宮中火災
- 春正月、広徳夷王の弟・広漢を広平王に立て、中山靖王の後を継がせた。
- 同じころ、帝太太后の住む桂宮の正殿が焼けた。
平当の病死
- 哀帝は使者を遣わして丞相平当に侯印を授けようとしたが、平当は病が重く応じなかった。
- 家族が、無理に起きて侯印を受ければ子孫に爵位を残せるのではないかと勧めると、平当は、自分は高位にあって俸禄をむさぼる責めをすでに負っている、ここで起き上がって侯印を受け、帰って寝て死ねば罪はなお重い、子孫のためにも受けないのだと答えた。
- そのまま致仕を願い出たが許されず、三月己酉に死去した。
- また河鼓のあたりにも彗星が現れた。
夏四月 王嘉・王崇の登用
- 夏四月丁酉、王嘉が丞相となり、河南太守王崇が御史大夫となった。王崇は京兆尹王駿の子である。
- 王嘉は、政治が苛酷で郡国の守相がしばしば入れ替えられていることを憂え、広く上疏した。
王嘉の上疏 地方官の軽視を批判
- 王嘉は、聖王の治績は人材登用にあり、古くは諸侯を立てて賢者の家を重んじ、命卿を置いて補佐させたので、累世の重みが教化を支えたと説いた。
- 漢の郡守は領域の広さからいって古の諸侯以上に重いのに、近年は人事が性急で、数か月で更迭される者もあり、旧任の送りと新任の迎えが道で交錯する有様だと述べた。
- そのため、中材の者は保身に走り、下材の者は常に罪を恐れて私利を営み、二千石は軽んじられ、民も官を侮るようになったと批判した。
- さらに、司隷や刺史が細かな罪をあげつらい、陰私を暴いてばかりいるので、守相は威権を失い、山陽で蘇令らの亡徒が横行した際にも、吏士が節義を守って死力を尽くさなかったのだと論じた。
- 成帝・宣帝の時代には、善治の吏を厚く保護し、弾劾があっても軽々しく下さず、赦令で解くことも多かったことを引き、賢能な二千石や刺史・県令を選び、小過を広く容れて、その能力を尽くさせるよう求めた。
- また、有事の際に使える人材を平時から養成すべきで、事件が起きてから急に求めるのでは朝廷の人材不足を示すだけだと述べた。
- 王嘉はあわせて、儒者の公孫光・満昌、能吏の蕭咸・薛修を推薦し、帝はこれを採用した。
六月 魯王の継承
冬十一月 郊祀の再変更と怪異
- 哀帝の病はなお癒えず、冬十一月壬子、太皇太后に詔を下させて、甘泉の秦畤と汾陰の后土祠を復活させ、南北郊の祭をやめた。
- 帝自身は甘泉や河東に親行できなかったため、有司を派遣して祭祀を行わせた。
- 無塩県の危山では、土が自然に盛り上がって草を覆い、まるで馳道のような形となった。また、瓠山では石が回転して起き上がった。
東平王雲の事件
- 東平王劉雲と王后謁は、その石のある場所へ赴いて祭り、宮中にもそれを模した山や立石を造り、倍草を束ねて合わせ祀った。
- 河内の息夫躬と長安の孫寵は、これを利用して告発すれば封侯の好機になると考え、中郎の右師譚と組み、中常侍宋弘を通じて変事として上聞した。
- この頃、帝は病中で不吉なことを非常に忌んでいたため、有司に劉雲と王后謁を逮捕させて取り調べた。その結果、祠祭や呪詛を行い、石の起立を宣帝起興の前例に見立てて、劉雲を天子に立てようとしたと認定された。
- 有司は誅殺を請うたが、詔して王号を廃し房陵へ移した。劉雲は自殺し、王后謁・伍宏・成帝の舅安成共侯夫人放らは棄市となった。
- 事件は御史大夫王崇にも連座し、彼は大司農へ左遷された。孫寵は南陽太守、右師譚は潁川都尉となり、宋弘・息夫躬はいずれも光禄大夫左曹給事中となった。