資治通鑑漢紀二十六 孝哀皇帝 建平 四年 前3年

春正月 西王母流行

  • 春正月、大旱があり、関東の民衆が理由もなく驚き騒ぎ、禾稈や麻幹を持ち回して「西王母の籌が来た」と言い合った。
  • 道中で集まる者は多いと千人に達し、髪を乱し裸足で走る者、夜に関をくぐる者、塀を越える者、車馬で駅伝のように駆ける者まで現れた。
  • この騒ぎは二十六郡国を巡って京師に達し、禁じても止められなかった。里巷や道端では博具を並べ、歌舞して西王母を祀ることが流行し、秋になってようやく鎮まった。

傅商封侯をめぐる鄭崇の諫争

  • 哀帝は傅太后の従父弟である侍中光禄大夫傅商を封侯しようとした。
  • 尚書僕射鄭崇は、成帝が外戚の五侯を封じたときには昼でも赤黄に暗くなり、日中に黒気が出るなどの天変があったと指摘し、孔郷侯傅晏や高武侯傅喜は皇后の父・三公という由来があるが、傅商には何の功もなく、封侯は制度を壊して天意と人心に逆らうもので、傅氏の福にはならないと強く諫めた。
  • 鄭崇は、自分の命をもって国家の災いを引き受ける覚悟だと述べ、詔書を載せた案を押さえてまで争った。
  • 傅太后は激怒し、「天子でありながら、なぜ一臣に専断されるのか」と言い、二月癸卯、帝はついに傅商を汝昌侯に封じた。

董賢の寵幸

  • 駙馬都尉侍中の董賢は、哀帝の寵愛を受けて外出には陪乗し、内では常に左右に侍った。賜物は巨万に達し、朝廷を震わせる勢いとなった。
  • しばしば帝と寝起きをともにし、あるとき昼寝中に董賢が帝の袖を枕にして眠っていたので、帝は起きようとしても彼を起こしたくなく、袖を断ち切って立った。これが後の「断袖」の故事である。
  • 董賢の妻は殿中に出入りし、董賢の宿所に留まることを許された。さらに妹を昭儀とし、皇后に次ぐ待遇を与え、董賢夫婦とその妹は朝夕ともに帝のそばに侍った。
  • 董賢の父董恭は少府となり、関内侯の爵を受けた。
  • 将作大匠に命じて北闕の下に董賢の大邸宅を造らせたが、重殿・洞門など、天子の制度に僭する造営であり、土木は技巧を尽くした。
  • 武庫の禁兵や禁中の珍宝の最上品も董氏に与えられ、天子自身の用いる品はその残りとなった。
  • さらに東園の秘器、珠襦・玉匣まで前もって賜り、義陵のそばには生前から墓域を造らせ、便房・題湊・徼道・周垣・門闕・罘罳まで備えた壮大なものとした。

鄭崇・孫宝の弾圧

  • 鄭崇は董賢の寵が度を越しているとしてたびたび諫めたため、帝の怒りを重ねて買い、職務上の責めをしばしば受けた。
  • 彼は頸に癰を患い、辞職を願いたかったが言い出せなかった。尚書令趙昌はもとより鄭崇を憎んでおり、宗族と通じて不審な事をしていると讒奏して取り調べを求めた。
  • 帝が「君の家門は市のように人が多い。どうして主上を制しようとするのか」と責めると、鄭崇は「門は市のようでも、心は水のように清い」と答え、再審を願った。だが帝は怒って下獄した。
  • 司隷孫宝は上書して、趙昌の讒言に私怨が混じっている疑いがあり、禁中近臣が冤罪を受けるのは国家への非難を招くとして、趙昌を治罪して人心を解くべきだと訴えた。
  • しかし帝は、孫宝こそ下にへつらい上を欺いていると決めつけ、免官して庶人に落とした。鄭崇はついに獄死した。

三月以後 董賢封侯工作

  • 三月、諸吏散騎を帯びた光禄勲賈延が御史大夫となった。
  • 哀帝は董賢を封侯したかったが、表向きの功名がなかったので、侍中傅嘉が、息夫躬・孫寵の東平告発の上章から宋弘の名を削り、董賢の名で上聞した形に改めれば、その功で封侯できると勧めた。
  • そのため三人にはまず関内侯の爵が与えられた。
  • さらに帝は封侯を進めたかったが、丞相王嘉をはばかり、まず孔郷侯傅晏に詔書を持たせて丞相・御史大夫に示した。
  • 王嘉と御史大夫賈延は封事を上り、董賢ら三人が関内侯となっただけでも世論は騒然としており、まず元の上奏文を公開し、公卿・博士・議郎に古今を考証させてから爵土を加えるべきだと諫めた。天下の議論を分かち、非難を帝一人に集中させないためだとも述べた。
  • 帝はやむなくしばらく中止した。

夏六月 傅太后の再尊崇

  • 夏六月、帝太太后傅氏を皇太太后に尊んだ。

秋八月 董賢・孫寵・息夫躬ら封侯

  • 秋八月辛卯、帝は公卿をきびしく責める詔を下した。東平王雲の謀反計画を未然に察知できなかったのは、公卿が股肱として十分に耳目を尽くしていなかったからだとし、その発覚は董賢らの功によるとした。
  • そのうえで、董賢を高安侯、南陽太守孫寵を方陽侯、左曹光禄大夫息夫躬を宜陵侯に封じ、右師譚に関内侯の爵を与えた。さらに傅太后の同母弟鄭惲の子・業を陽信侯に封じた。
  • 息夫躬は帝に近づいてしばしば進言し、公卿大臣を痛烈に批判したため、群臣はその口を恐れて顔をそむけるほどだった。

毋将隆の上奏

  • 帝は中黄門に命じて、前後十隊もの武庫兵を出し、董賢および帝の乳母王阿の舎に送らせた。
  • 執金吾の毋将隆は上奏し、武庫の兵器は天下公共の武備であって、国家の守りや辺吏への授与に使うべきものであり、私人の家備えに供すべきではないと諫めた。
  • 民力は公のために徴され、少府と大司農の用途も公私を分けるために区別されているのだから、微賤な寵臣や妾の家に公器を与えるのは、国家の威器を欠損させ、驕僭を広げ、四方への示しにもならないとした。
  • さらに、孔子が魯の三家の堂で『雍』が歌われるのを非難したことを引き、身分を越えた制度の逸脱だと論じた。
  • 帝は不快に思った。

傅太后の官婢購入と毋将隆左遷

  • まもなく傅太后は、謁者を使って執金吾官の官婢八人を安値で買い取らせようとした。毋将隆は価格が低すぎるとして、適正価格への改定を願い出た。
  • 帝はこれを、永信宮と値段を争ったものだとして丞相・御史に詔し、毋将隆は九卿にありながら朝廷の不足を正さず、風俗を傷つけたと責め、沛郡都尉へ左遷した。
  • ただし、成帝末年に毋将隆が定陶王を国邸に召して万方を鎮めるべきだと建議していたことを帝は思い出し、そのため重罰にはしなかった。

鮑宣の極諫

  • 諫大夫鮑宣は上書し、成帝のときには外戚が権を握って私党を引き入れ、賢者の道を塞いで天下を乱し、ぜいたくで百姓を苦しめたため、日食や彗星の異変が相次いだと指摘した。
  • いまはそれが前以上にひどいとし、民には七つの「亡」があると論じた。すなわち、水旱災害、重い租税・更賦、貪吏の収奪、豪族の侵食、苛政による農時の喪失、盗賊警戒のための男女総出、実際の盗賊被害である。
  • さらに七つの「死」として、酷吏の殴殺、深刻な獄、冤罪、盗賊横行、仇敵どうしの殺傷、凶作飢饉、疫病を挙げた。
  • 公卿守相は重禄を食みながら百姓をあわれまず、賓客の請託に応じて私利を図り、苟且・拱黙を智と呼んでいると激しく非難した。
  • そして、天下は皇帝個人のものではなく、皇天の天下であり、皇帝は万民の父母として等しく養うべきだと説いた。貧民は菜食でも飽きず、衣は破れ、父子夫婦すら保てないのに、外戚と董賢だけを厚く養い、賜物は巨万、奴僕まで富ませているのは天意ではないとした。
  • また、傅商は無功で封じられ、孫寵と息夫躬は弁舌だけで衆を惑わす奸雄であるから退けるべきだとし、外戚の若年者には経学を学ばせ、傅喜・何武・師丹・孔光・彭宣・龔勝ら、経術と高位の経験を持つ者を再起用するよう求めた。
  • 帝はその言が峻烈であっても、鮑宣が名儒であったため、ひとまず寛容に扱った。

匈奴単于の朝請問題と揚雄の諫書

  • 匈奴単于が上書して、来る五年に朝見したいと願い出た。
  • このとき帝は病に苦しんでおり、匈奴は上流・北方から来て人を厭う、しかも黄龍・竟寧のころ単于が朝したときには国に大故があった、という説が出たため、帝は受け入れをためらった。
  • 公卿たちも、府帑を虚費するだけだから、しばらく許可しないのがよいと答え、単于使者も辞去した。
  • ところが黄門郎揚雄が上書し、国家の大事は未乱・未戦のうちに防ぐことにあるとし、ここで単于の朝請を断れば、漢と匈奴の間に隙が生じると論じた。
  • 揚雄は、秦始皇・高祖・高后・文帝・武帝以来の対匈奴史を引き、匈奴は五帝も臣属させられず、三王も制しえなかった強敵であり、漢は長城、防衛、和親、大軍遠征、衛青・霍去病の征伐、呼韓邪単于の帰附に至るまで、莫大な財力と兵力を費やしてようやく今日の関係を築いたのだと説いた。
  • 北狄は他国と違っていったん隙を作ると修復がむずかしく、いま単于が誠意をもって来朝を願うのは先代の遺策が実ったもので、多少の費えを惜しんではならないと述べた。
  • さらに、西域に都護を置き諸国を制したのも、根本では匈奴を抑えるためであり、百年の苦労を一日で失うようなまねをしてはならないと諫めた。
  • 帝はこれを読んで悟り、匈奴使者を呼び戻し、書を改めて単于の朝見を許した。揚雄には帛五十匹と黄金十斤を賜った。
  • その後、単于は出発前に病となり、さらに翌年の朝見を願う使者を送ったので、帝はこれも許した。

息夫躬の対外策と王嘉の反対

  • 董賢の寵愛が日増しに盛んになると、丁氏・傅氏はこれを憎み、孔郷侯傅晏は息夫躬と組んで、自分たちが朝政を補佐する地位に就く道を探った。
  • ちょうど単于が病気を理由にまだ朝見していなかったため、息夫躬はこれを利用し、単于には別の変心があるかもしれず、また烏孫では弱い両昆彌に対し卑爰疐が強勢で、匈奴と結べば西域が危ういと奏上した。
  • そこで、降胡に卑爰疐の使者を装わせて上書させ、天子の威を借りて単于に人質返還を迫る文書を作り、それを匈奴の使者に漏れ聞かせれば、謀を挫き外交を断つ上策になると主張した。
  • 帝は息夫躬を召見し、公卿将軍を集めて大議した。
  • 左将軍公孫禄は、中国は威信によって夷狄を懐柔するのを常道としており、根拠もないのに相手の詐を逆算して不信の策をつくるのはよくない、匈奴は先帝の徳に感じて塞に安んじており、自分が生きている間に辺境の憂いとなることはないと反対した。
  • これに対して息夫躬は、公孫禄は老いて目先の安穏しか見ておらず、将来起こりうる事態を前もって防ぐ国家の大計を理解しないと攻撃した。
  • 帝は息夫躬の言をよしとして群臣を退け、さらに単独で議した。息夫躬は、災異がたびたび現れる以上、非常の変に備えて大将軍を辺境に巡行させ、武備を整え、一郡守を斬って威を立てれば四夷を震え上がらせ、天変への厭勝にもなると進言した。
  • 帝はその考えに傾き、丞相王嘉に問うた。

王嘉の反論

  • 王嘉は、民を動かすのは空言ではなく実績によるべきであり、天に応えるのも文飾ではなく誠実な善政によるべきだと答えた。
  • 災異は君主に反省を促すために現れるのであって、辯士が一端を見て勝手に星暦にこじつけ、匈奴や西羌の難を作り話し、兵を動かして権変を設けるのは、天に応じる道ではないと批判した。
  • 郡守・諸侯相はすでに罪があれば車を飛ばして都に赴き、腕を組んで死を待つほど恐れているのに、それでもなお安きを危うくする策を語るのは、耳ざわりがよいだけで採るべきではないと述べた。
  • さらに、秦穆公が百里奚・蹇叔の諫を聞かずに敗れ、『秦誓』で黄髪の言に思いを致した故事を引き、先に帝の耳に入った言葉だけを主としてはならないと戒めた。
  • しかし帝はこの反対を聞き入れなかった。