資治通鑑漢紀二十四 孝成皇帝 綏和 元年 前8年

王根退任と定陶王への扱い

  • 冬十月甲寅、王根が病を理由に罷免された。
  • 成帝は、太子は大宗を継いだ以上、実父の家を顧みることはできないと考えた。十一月、楚孝王の孫の景を定陶王に立て、旧封を継がせた。
  • 太子が旧少傅閻崇に謝礼をしようとしたところ、閻崇は、為人後の礼では私親に関わる旧臣へ礼を尽くすべきでないと言ったが、太傅趙玄は謝してよいとした。太子は趙玄に従った。
  • 成帝が理由を問い、尚書がこれを弾劾したため、趙玄は少府へ左遷された。光禄勲師丹が太傅となった。

傅太后・丁姫と太子

  • 太子が幼いころ、祖母の傅太后が自ら養育していた。
  • 太子に立てられると、傅太后と実母丁姫は定陶国邸に留め置かれ、会うことを許されなかった。
  • その後、王太后は二人を十日に一度太子のもとへ行かせようとしたが、成帝は、太子は正統を継ぐ者であり、太后をこそ奉養すべきで、私親に心を向けてはならないと拒んだ。
  • 王太后は、傅太后については乳母のような恩があるだけで政治上の妨げにはならないと取りなしたため、傅太后のみ太子邸へ行くことが許され、実母の丁姫だけは許されなかった。

淳于長の専横と王莽の告発

  • 衛尉侍中の淳于長は成帝の寵愛と信任を受け、権勢は公卿を圧し、諸侯や州郡長官とも結び、巨万の賄賂や贈答を受けていた。
  • また声色に溺れ、廃后許氏の姉である孊と密通し、やがて妾として囲った。孊を通じて長定宮にいる許后とも往来し、許后から金銭や乗輿服御の物を前後千余万も受け取り、左皇后として復位させるよう取り計らうと偽っていた。許后や孊とのあいだでは、宮中を侮るような書簡も交わしていた。
  • このころ曲陽侯王根は長く執政し、病気のためしばしば引退を願っていた。淳于長は外戚として九卿の地位にあり、自分こそ次に補政すべきだと内心で喜び、人事案まで口にしていた。
  • 侍中騎都尉光禄大夫王莽は、長の寵勢を憎み、その不正を知っていた。王根の病床で、長が将軍の病を喜び、後継者気取りで人事を論じていると告げた。
  • 王根は怒って、なぜ早く言わなかったのかと責めた。王莽は将軍の意向が分からなかったからだと答えた。
  • 王根は太后に急いで報告するよう命じ、王莽は東宮に入り、淳于長が驕って王根に取って代わろうとし、長定宮の貴人の姉と通じ、その衣物まで受け取っていると詳しく告げた。
  • 太后も怒り、成帝に伝えた。成帝は太后に遠慮して、ひとまず淳于長の官を免じ、罪には問わず、封国へ帰らせることにした。

淳于長誅殺・許后自殺

  • もともと紅陽侯王立は、自分が輔政できなかったのは淳于長の讒言のためと思い、長を深く憎んでいた。
  • 淳于長が就国する際、王立の嗣子王融が長の車騎を借りたいと申し出て、長は珍宝を託して王立へ重く賄賂し、在京留任を願わせた。
  • 王立は上封事して、太后に配慮するという建前を立てるなら、いまさら別の処置をしてはならないと主張した。
  • 成帝は、長を恨む王立がかえって擁護するのを怪しみ、役人に調べさせた。
  • 王立は事が漏れるのを恐れて王融を自殺させて口封じしたため、成帝はいよいよ大姦ありと疑い、淳于長を逮捕して洛陽の詔獄に下した。
  • 徹底的に取り調べると、長は許后との通謀、左皇后擁立の企て、長定宮との不敬なやり取りなどをすべて自白し、大逆罪となって獄中で死んだ。
  • 妻子で連座した者は合浦へ流され、母の若は本郡に帰された。
  • 成帝は廷尉孔光に節を持たせ、廃后許氏へ薬を賜って自殺させた。

王立・朱博らの処分

  • 丞相翟方進はさらに王立の狡猾不道を弾劾し、獄に下すことを求めた。
  • 成帝は、王立は自分の舅であるから法に付すに忍びないとして、封国へ帰らせるにとどめた。
  • そこで翟方進は、王立の党与である後将軍朱博・鉅鹿太守孫閎らを免官し、陳咸も故郷に帰らせた。陳咸は自らの失脚と禁錮を憂えて死んだ。

翟方進と杜業

  • 翟方進は才知に余裕があり、文法・吏事に通じ、それを儒雅で飾ることに長けたため、「通明相」と称された。成帝の微妙な意図をよく察して奏事し、重く用いられた。
  • ただし、淳于長が権勢を振るっていたころ、方進はむしろ長と交わって推挙していたため、長の誅殺後には、これをかばった大臣として成帝に後ろめたさを持った。
  • 引退願いを出したが、成帝は「過ちを朝に改めれば夕には許される」と慰留した。
  • その後、方進は淳于長と親しい者たちを次々に摘発し、京兆尹孫宝・右扶風蕭育・州刺史・二千石ら二十余人を免官させた。
  • また、函谷都尉建平侯杜業はもとから方進と不仲であったが、紅陽侯立の書状を受け取り、その頼みを聞いたとして奏劾され、免官のうえ封国に追われた。

王莽の大司馬就任

  • 成帝は、王莽が大きな姦悪を最初に暴いた忠直を称えた。王根もまた王莽を後任に推した。
  • 丙寅、王莽が大司馬となった。このとき三十八歳であった。
  • 王莽は、王鳳・王商・王音・王根につづいて外戚の中から輔政の地位に立ち、前人を超える名声を得ようと、ますます自らを刻苦して倦まなかった。
  • 賢良を広く招いて属官とし、封邑の収入や賞賜はみな士に施した。自らは一層倹約を装い、母が病むと公卿列侯の夫人が見舞いに来たが、王莽の妻は裾を引かない粗衣に蔽膝姿で出迎えたため、召使いかと思われたほどであった。これも名声づくりの一端であった。

州牧設置

  • 丞相翟方進と大司空何武は、春秋の義では貴者が賤者を治めるのであって、その逆ではない、いまの刺史は身分が低いのに二千石の郡守を監督しており、軽重が釣り合わないと奏した。
  • そこで十二月、刺史を廃して州牧を置き、その秩を二千石とし、古制に合わせた。

古磬・辟雍論・劉向の死

  • 犍為郡で水辺から古磬十六枚が見つかり、議者はこれを吉祥と見た。
  • 劉向はこれを機に、天子が辟雍を興し、庠序を整え、礼楽を備え、揖譲の教えで天下を化すべきだと説いた。
  • たとえ礼器や楽器が完全でなくても、教化の根本を捨てて刑罰だけに頼るよりははるかによい、いまの人々が五常を学ばず、重罪に陥るのも教化を怠った結果だと主張した。
  • 成帝はこの意見を公卿に下し、丞相・大司空は長安城南で辟雍建立の予定地を測量させたが、工事着手前に中止となった。
  • また、孔子が布衣で弟子三千人を養ったことになぞらえ、太学弟子が少ないとする議論が出て、一時は太学生を三千人まで増やしたが、一年余りで元に戻った。
  • 劉向は、成帝の信任を得ていたのを頼みとして、たびたび宗室を擁護し、王氏や大臣を痛烈に批判した。成帝も九卿に用いようとしたことが何度かあったが、王氏に位置を占める者や丞相・御史に阻まれて昇進できなかった。
  • こうして列大夫の官に三十余年あって卒した。王氏が漢を奪うのは、それから十三年後であった。