資治通鑑漢紀二十四 孝成皇帝 元延 四年 前9年

正月・三月の巡幸と定陶王への傾斜

  • 春正月、成帝は甘泉で郊祀を行った。
  • 中山王興と定陶王欣が朝見した。中山王は傅のみを伴って来たが、定陶王は傅・相・中尉まで従えており、成帝はその差を怪しんだ。
  • 定陶王は、諸侯王の入朝には国の二千石官まで従うことが法で認められているからだと答えた。
  • 成帝は二王に詩書を読ませ、礼法や受け答えを試したところ、中山王は法令にも通じず、書も満足に誦せず、飲食や立ち居振る舞いも礼を欠いた。これに対し定陶王は有能に見えた。
  • 成帝は中山王を不適任とみなし、たびたび定陶王の才を称えた。当時、二王は皇帝に最も近い宗室であった。
  • 定陶王の祖母傅太后は王とともに来朝し、趙皇后・趙昭儀・王根らに私かに贈り物をして取り入った。後宮と王氏も、成帝に子がないことから、将来を見越して定陶王を推した。
  • 成帝自身もその才を愛し、元服を加えて帰国させた。

谷永の失脚

  • 三月、成帝は河東で后土を祀った。
  • 関東に隕石が二つ落ちた。
  • 王根の推薦で谷永が召されて大司農となった。
  • しかし谷永の上書は一貫して成帝自身と後宮の過ちを攻撃する内容で、しかも王氏寄りでもあったため、成帝も深くは信用しなかった。
  • 在任一年余りで病により三か月欠勤すると、通常の賜暇も与えられず、そのまま罷免された。数か月後に死んだ。

皇太子選定の議論

  • 綏和元年春正月、天下に大赦があった。
  • 成帝は丞相翟方進・御史大夫孔光・右将軍廉褒・後将軍朱博を禁中に召し入れ、中山王と定陶王のどちらを皇嗣とすべきかを議論させた。
  • 翟方進・王根・廉褒・朱博は、弟の子は自分の子に準じるという礼を根拠に、定陶王を皇嗣とするのが妥当だと主張した。
  • 孔光だけは、継嗣は親の近い者を立てるのが礼であり、中山王は先帝の子、すなわち成帝の実弟だから最も親しいとして、中山王を推した。さらに殷の兄終弟及の例も引いた。
  • しかし成帝は、中山王の器量不足と、兄弟相承は宗廟の配列に合わないことを理由に、孔光の意見を採らなかった。

定陶王立太子

  • 二月癸丑、定陶王欣を皇太子に立てる詔が出た。
  • 中山王の舅である諫議大夫馮参を宜郷侯に封じ、中山国の戸数を三万戸増やして、その不満を慰めた。
  • 執金吾任宏に大鴻臚を仮攝させ、節を持って定陶王を召した。定陶王は、自分の資質では東宮に仮に充てられるにも足りず、せめて国邸に留まって朝夕の起居をうかがいたい、もし皇帝に嫡子が生まれれば国に帰って藩を守りたいと謙辞を述べたが、許されなかった。
  • 戊午、成帝の意に合わなかった孔光は廷尉へ左遷され、その後任の御史大夫には何武が任じられた。

孔子後裔を殷後とする

  • 殷の後裔を求めたが、十数姓に分かれていて嫡流を確定できなかった。
  • そこで匡衡・梅福らは、孔子は殷人の後であるから、その家を湯王の後として封ずるべきだと主張した。
  • 成帝はこれを採用し、孔結を殷紹嘉侯に封じた。三月には周の承休侯とともに爵を公に進め、食地百里を与えた。

三公制の整備

  • 何武は、近世は政務が繁雑で、丞相一人に三公の職掌を兼ねさせる旧制では支えきれず、事務停滞が起こると建言した。
  • 成帝はこれを容れ、夏四月、王根に大司馬の印綬を与えて官属を置き、驃騎将軍の官を廃して大司馬を独立官とした。
  • 御史大夫何武を大司空に任じ、汜郷侯に封じ、俸禄も丞相と同額に引き上げて、三公の体制を整えた。

中山王・匈奴

  • 秋八月庚戌、中山孝王興が薨じた。
  • 匈奴では車牙単于が死に、弟の囊知牙斯が烏珠留若鞮単于として立った。彼は弟の楽を左賢王、輿を右賢王とした。

夏侯藩の失策

  • 漢は中郎将夏侯藩と副校尉韓容を匈奴へ派遣した。
  • ある者が王根に、張掖郡境に匈奴領がくさび状に食い込む地があり、良材や鷲羽が産して国家の利になるから取り戻すべきだと勧めた。王根はその利益を成帝に説いた。
  • 成帝は単于に直接求めるのは威信を損ねかねないとして、夏侯藩にほのめかして、自分の意見として求めさせた。
  • 藩は匈奴で、張掖の辺境守備を軽くするためにその地を献上すべきだと説いたが、単于はこれが詔か使者の私意かを問い、藩は詔意でもあり自分の献策でもあると答えた。
  • 単于は調査を約したが、藩らが再度使者として来ると、呼韓邪以来五代にわたって漢はその地を要求しなかったのに、なぜ今になって求めるのか、しかもそこは先祖以来の地であり建材の供給地でもあるとして拒否した。
  • 藩が帰国すると太原太守に移されたが、単于は藩が地を要求した次第を上書で訴えた。
  • 成帝は、藩が勝手に詔を称して匈奴に求地したので本来死罪だが、恩赦により済ませ、済南太守に左遷して匈奴に当たらせないと単于に返答した。