資治通鑑漢紀二十四 孝成皇帝 元延 元年 前12年

正月・三月の祭祀と天変

  • 春正月朔に日食があった。
  • 壬戌、王商が再び大司馬衛将軍となった。
  • 三月、成帝は雍に行幸し、五畤を祀った。
  • 夏四月、雲がないのに雷が鳴り、日下から東南へ流星が走り、夕方から日暮れまで四方に雨のように光が飛び散ったので、天下に大赦を出した。
  • 秋七月には東井に彗星が現れた。

谷永の大規模な災異論

  • 成帝が災異について群臣に広く意見を求めると、北地太守の谷永は、天人感応の理を長く説いた。
  • 彼は、いまは漢の国運が衰えの節目に当たり、近年の災異は内には後宮・近習の乱、外には天下の兵乱の兆しを示しているとした。とくに、宮中の放縦、微行、酒色、寵姫の偏愛をやめ、君臣・父子・夫婦の綱紀を正すよう求めた。
  • また、民衆の飢えに重税を重ねれば反乱の芽が育つとし、増税案を退けて節用と救恤に努めるべきだと訴えた。

劉向の上書

  • 中塁校尉劉向も上書し、古来、国の盛衰にはかならず天変が先行すると述べた。
  • 春秋二百四十二年間の日食は三十六回であったのに、近二十年のあいだに日食が頻発しており、しかもこの数年は特に多いとして、非常事態だと警告した。
  • 秦末・漢初、恵帝・昭帝の時代、昌邑王の失脚、宣帝の中興などを例に挙げ、異変が天意の去就を明らかに示してきたと論じた。
  • そのうえで、成帝に召見を願い、図を示してさらに説明したいと申し出た。成帝は取り次いだが、結局その主張を十分には用いなかった。

陳咸・王商・王根

  • 紅陽侯王立が陳咸を方正の士として推挙し、陳咸は光禄大夫給事中となった。
  • しかし丞相翟方進は、陳咸は以前に九卿として貪汚で罷免された者であり、内朝に入れるべきではないと再奏した。また王立の推挙も不実であるとして弾劾した。
  • 詔により陳咸は罷められたが、王立は不問となった。
  • 十二月乙未、王商が大将軍となり、辛亥に薨じた。
  • その後継として本来は王立が有力だったが、彼が南郡太守李尚を利用して官有・民有の曖昧な土地を先取りし、高値で官に売りつけようとしたことを丞相司直孫宝が暴いたため、成帝は王立を退けた。
  • 庚申、弟の光禄勲曲陽侯王根が大司馬驃騎将軍となった。

張禹への厚遇と王氏擁護

  • 特進安昌侯張禹は、自分の墓地として平陵の肥牛亭の地を求めた。王根は陵寝の遊道に当たるとして反対したが、成帝は聞き入れず、張禹に与えた。
  • 王根はこの件で張禹を憎んだが、成帝はますます張禹を敬重した。病気のたびに自ら見舞い、張禹の子までその場で黄門郎給事中に任じた。
  • 国家の大政は張禹に必ず相談された。
  • 当時、災異を王氏専政のせいだとする上書が多かったため、成帝はひそかに張禹へ意見を求めた。
  • 張禹は、天変の意味は深遠で浅学の儒者には測れない、政治を修めて善く応じるべきであり、王氏を疑うような議論は信じるべきでないと答えた。
  • 成帝はもとより張禹を深く信じていたため、この言葉で王氏をいよいよ疑わなくなった。

朱雲の直諫

  • かつて槐里令だった朱雲が上書して拝謁を求め、朝廷の大臣は君主を正さず民の益にもならず、ただ禄を食むだけだと厳しく非難した。
  • そして、尚方の斬馬剣を賜って奸臣一人の首を斬り、他を戒めたいと願い出た。誰を指すのかと問われると、安昌侯張禹だと答えた。
  • 成帝は激怒し、御史に命じて朱雲を引き下がらせた。朱雲は殿上の欄干に取りすがって折り、龍逢・比干のように死んでもよいと叫んだ。
  • 左将軍辛慶忌が冠を脱ぎ、印綬を解いて血を流しながら諫めたため、成帝はようやく怒りを解き、朱雲は助かった。
  • 後に欄干を修理する際、成帝は取り替えずに継ぎ合わせて、直臣のしるしとして残させた。

匈奴と張放

  • 匈奴では搜諧単于が入朝前に病没し、弟の且莫車が車牙若鞮単于として立ち、囊知牙斯が左賢王となった。
  • 北地都尉張放は着任数か月でまた召し戻され侍中となったが、太后は以前から重用を勧めていた班侍中の件に加え、富平侯張放までまた召すのかと成帝に書を送った。
  • 成帝は謝罪し、張放を天水属国都尉に出した。

東宮の侍臣と辛慶忌の死

  • 張商、許商、師丹、班伯らが光禄大夫・水衡都尉・侍中などとなり、毎朝東宮に従って王太后に仕え、大政には公卿へ聖旨を伝えた。
  • 成帝も次第に遊宴を厭い、ふたたび経書の学習に意を向けたので、王太后は大いに喜んだ。
  • この年、左将軍辛慶忌が卒した。天下太平の時代にあって、匈奴や西域がその威信を敬った将軍であった。