資治通鑑漢紀二十四 孝成皇帝 元延 二年 前11年
巡幸と広陵王の継承
- 春正月、成帝は甘泉で郊祀を行った。
- 三月、河東で后土を祀ったのち、龍門を遊覧し、歴観に登り、西岳に登って帰還した。
- 夏四月、広陵孝王の系統が絶えていたため、その子孫の守を広陵王に立てて封を継がせた。
烏孫の内乱と段会宗
- 以前、烏孫の小昆弥安日が降民に殺され、諸翖侯が大いに乱れたことがあった。このため朝廷は故金城太守段会宗を左曹中郎将・光禄大夫として派遣し、烏孫を安定させた。彼は安日の弟の末振将を小昆弥に立てて帰還した。
- だが大昆弥雌栗靡は強く、末振将は併呑を恐れて貴人烏日領に偽降させ、雌栗靡を刺殺させた。
- 漢は兵を出して討とうとしたが果たせず、段会宗を再派遣して、公主解憂の孫伊秩靡を大昆弥に立てた。
- その後、翖侯難栖が末振将を殺し、安日の子安犁靡が小昆弥となった。漢は自ら末振将を誅せなかったことを恨み、再び段会宗を派遣して戊巳校尉と諸国兵を起こし、番丘を誅した。
- 段会宗は大軍の侵入で番丘に逃げられることを恐れ、少数精兵で直行して番丘をその場で斬った。安犁靡は数千騎で会宗を包囲したが、会宗が漢命による誅殺であると説くと、烏孫側は泣いて兵を解いた。
- 会宗は帰国後、関内侯に封ぜられ、黄金百斤を賜った。また、難栖の忠節を賞して堅守都尉とし、大禄・大監の失態を責めて印綬を降格した。
- 末振将の弟卑爰疐は八万の兵を率いて康居に逃れ、昆弥併呑を図ったので、漢はさらに段会宗と都護孫建をしてこれに備えさせた。
- 烏孫を大昆弥・小昆弥に分けて以来、漢は絶えずこの問題で苦労し、安穏な年がなかった。
康居への対応論
- このころ康居は再び子を人質として漢に送り、貢物も献じてきた。
- 都護郭舜は上言し、匈奴の盛衰は烏孫・康居の服属とは本来無関係であり、両国をつなぎとめるために中国が余計な紛争を抱え込むのは得策でないと述べた。
- とくに康居は傲慢で、使者に礼を尽くさず、入侍も交易目的を隠した口実にすぎないと見て、その侍子を帰し、無礼な国とは断交して漢の威を示すべきだと論じた。
- しかし漢は、せっかく通じた遠国との関係を重んじ、完全には断たず、緩やかな従属の形でつなぎとめ続けた。