資治通鑑漢紀二十三 孝成皇帝 永始 三年 前14年

正月の日食と祭祀復興

  • 春正月己卯の晦日、日食があった。
  • 以前、成帝は匡衡の議に従って甘泉の泰畤を廃していたが、その日、大風が甘泉の竹宮を吹き壊し、畤中の十囲以上もある木百余本を折り抜いた。
  • 成帝がこれを怪しんで劉向に問うと、劉向は、庶人の家でさえ祭祀を絶やしたくないものなのに、まして国家の神宝である旧畤を軽々しく動かすべきではない、武帝・宣帝以来、甘泉・汾陰・雍五畤はいずれも神祇の感応を得て営まれたものであり、貢禹らの議を継いで祭を乱したのは恐るべきことだと答えた。
  • 成帝はこれを悔い、冬十月、太后に申し上げたうえで、有司に詔し、甘泉泰畤・汾陰后土・雍五畤・陳宝祠のほか、長安や郡国で霊験著しい祠をすべて旧に復した。
  • このころ成帝は継嗣がないため、鬼神や方術への関心を強めていた。

谷永の方術批判

  • 方術や祭祀を論じて待詔を得る者が多く、祠祭費用もかなりかさんだ。そこで谷永は、天地万物の理を知る者は神怪に惑わされず、仁義に背いて五経に従わず、奇怪・鬼神・長生・仙人・服食・黄冶変化の術を盛んに説く者は、みな左道を挟み、詐偽を懐いて世主を欺く姦人であると奏した。
  • その言は耳には満ちあふれるが、求めれば風や影を捕えるように空しく、実際には得られない、とし、徐福、新垣平、少翁、公孫卿、欒大らの前例を挙げて、こうした類の者を朝廷に近づけてはならないと説いた。
  • 成帝はこの意見を善しとした。

樊並・蘇令の反乱

  • 十一月、尉氏の樊並ら十三人が反乱を謀り、陳留太守を殺し、官吏や民を脅かして「将軍」と称した。徒刑囚の李譚、称忠、鍾祖、訾順らが共同して樊並を殺し、その功によりみな侯に封じられた。
  • 十二月、山陽の鉄官の徒である蘇令ら二百二十八人が長吏を殺し、兵器庫の武器を奪って「将軍」と称し、十九の郡国を歴て、東郡太守と汝南都尉を殺した。
  • 汝南太守の厳訢が蘇令らを捕えて斬り、大司農に昇進した。

梅福の上書

  • 旧南昌尉の九江の梅福が上書した。
  • 彼は、高祖は善言を恐れて逸するまいとし、諫言を丸い物が転がるように受け入れ、陳平や韓信のように出自を問わず人物を用いたので、天下の士が雲のように集まり、秦を鴻毛のように軽く、楚を落とし物を拾うように取れたのだと論じた。
  • また、武帝も忠諫や至言を喜び、薦挙や顕功を待たず爵賞を与えたので、布衣の士がこぞって闕庭に赴き、自らを売り込んだと述べた。ただし、その計を十分に用いなかったため、胡越に屍をさらすような兵役の拡大も招いたが、淮南王安の謀が成らなかったのは、本朝に多くの賢士がいたためだとした。

言論抑圧への批判

  • 梅福は、いま布衣が国家の隙を窺って蜂起するのは、広漢や山陽の例が示すように、国家の権威が軽く見られているからだとし、士は国の重器であり、得れば国は重く、失えば軽くなると説いた。
  • 自分も何度も上書して謁見を求めたが、毎度退けられた、これが天下の士が来朝しない理由だと言い、秦武王が任鄙の自売を受け入れ、穆公が由余を帰順させたように、今後は上書して見を求める士には尚書が必ず会って所言を聞き、採用すべきならわずかでも禄と帛を与えて励ますべきだと提案した。
  • そうすれば忠言・嘉謀が日に日に上聞し、天下の事情が明らかになるというのである。

王章以後の諱言風潮への批判

  • さらに梅福は、爵禄と束帛こそ天下の砥石であり、高祖がそれで世を励ましたのだと述べたうえで、秦は誹謗を禁じる網を張って、結果として漢に有為の士を追い込んだのであり、今の政はその悪例に近いと戒めた。
  • 近年、愚民の上書であっても「不急の法」に触れたとして廷尉に下され死ぬ者が多く、陽朔以来、天下では物を言うこと自体が禁忌となり、朝廷ではそれが特にひどいと指摘した。
  • その証拠として、京兆尹王章は忠直で先帝に抜擢され、群臣を矯正するために用いられたのに、今の御代では妻子にまで禍が及んだ、悪を憎むにも本人で止めるべきなのに、これでは直士の節を折り、諫臣の舌を結んでしまう、と述べた。

外戚専権への警告

  • 梅福は、建始以来の日食や地震、水災の多さ、さらには「金鉄為飛」のような異変を挙げ、これは陰が盛んで陽が衰え、外戚権力が増大している影だとした。
  • 漢興以来、呂氏・霍氏・上官氏の三度にわたる社稷の危機はいずれも母后の家によるものであり、本来は親親の道から彼らを全うさせるよう、賢師良傅をつけて忠孝を教えるべきなのに、現実には高位と魁柄を与えて驕逆させ、ついには夷滅させている、これは親親の道に大きく反すると批判した。
  • とくに霍光ほどの賢者ですら子孫のために備えられず、権臣は世が替われば危ういのだから、権勢が小さいうちに防がねばならないと『書』の「火は始めの小さいうちに消せ」という句を引いて警告した。
  • 成帝はこの上書を採用しなかった。