資治通鑑漢紀二十二 孝成皇帝 建始 二年 前31年
春正月 祭祀整理の継続
- 春正月、雍の五畤と陳宝の祠を廃した。いずれも秦以来の祭場であったが、匡衡は礼に合わないとして撤廃を求め、帝がこれに従った。
- 辛巳、帝は初めて長安南郊で郊祀を行い、奉郊に労のあった長安・長陵の二県と、中都官の耐罪徒を赦した。
- また、天下の算賦を四十減額した。もとの一人あたり百二十から八十に軽減したことになる。
閏月・三月 初陵と北郊祭祀、許皇后冊立
- 閏月、渭城の延陵亭の一部を割いて初陵とした。
- 三月辛丑、帝は初めて北郊で后土を祀った。
- 丙午、車騎将軍許嘉の娘を皇后に立てた。元帝は、成帝の母が早く失われ、霍氏の禍にも遭ったことを踏まえて、あえて許氏を太子妃に選んでいた。
後宮・継嗣をめぐる杜欽の進言
- 帝は太子時代から好色で知られ、即位後も皇太后が良家の娘を広く集めて後宮を充実させようとした。
- これに対し、大将軍府の武庫令杜欽は王鳳に、天子が九女を娶る古制は子孫を広げ宗廟を重くするためであり、むやみに補充しないことこそ争いを防ぎ長寿にもつながると説いた。
- さらに、若い帝がいまだ学問の道に向かっている今こそ、容色や技能よりも行義を備えた家の娘を選び、後世の法とすべきだと主張した。
- 王鳳はこれを太后に伝えたが、太后は前例がないとして採用しなかった。
- ただし王鳳は杜欽を重んじ、以後も政治上の相談相手とした。
夏 匈奴で単于交代
- 夏、大旱。
- 匈奴では呼韓邪単于が病に伏し、寵愛する顓渠閼氏は自分の子の且莫車を立てたがったが、国の安定を優先して、大閼氏の子で年長の雕陶莫皋を立てるよう勧めた。
- 単于はその策に従い、弟への伝位を条件に雕陶莫皋を立て、呼韓邪の死後、復株累若鞮単于が即位した。
- 新単于は王昭君を引き続き妻とし、二女をもうけた。