資治通鑑漢紀二十一 孝元皇帝下 建昭 三年 前36年

宰相交代

  • 夏六月、扶陽共侯韋玄成が死去した。
  • 秋七月、匡衡が丞相となり、戊辰、衛尉李延寿が御史大夫となった。

郅支単于討伐の背景

  • 冬、西域都護・騎都尉の甘延寿と、副校尉の陳湯が協力し、康居にいた郅支単于を討って斬った。
  • 郅支単于は、強国の威を恃み、勝利を重ねたことで驕慢になっていた。
  • 康居王の娘を娶っておきながら礼を欠くとして怒り、彼女や貴人・人民数百人を殺し、肢解して都頼水に投げ込んだ。
  • また住民を徴発して二年かけて城を築き、闔蘇・大宛などにも毎年の貢物を強要していた。
  • 漢が谷吉らの遺骸を求めて使者を送っても、郅支は使者を辱めて詔に従わず、逆に帰服するような口実で都護に書を送り、漢を愚弄した。

陳湯の決断

  • 陳湯は沈着で勇敢、奇功を好み、大きな謀略を持つ人物だった。
  • 彼は甘延寿に対し、郅支は威名が遠くに及び、烏孫・大宛を圧迫しており、このままでは西域諸国全体の患いになると説いた。
  • しかもその地は遠いとはいえ、蛮夷には漢のような堅固な城塞も強弩もないので、屯田兵と烏孫兵を率いて急襲すれば、一挙に大功を立てられると主張した。
  • 甘延寿も同意したが、朝廷に奏しても公卿は理解しないだろうとして、ためらった。
  • ちょうど甘延寿が病気だったため、陳湯は独断で城郭諸国の兵、車師の戊巳校尉の屯田兵を発した。
  • 甘延寿は驚いて止めようとしたが、陳湯は剣に手をかけて叱りつけ、すでに大軍が集まった以上、中止は衆を沮喪させるだけだと言った。
  • 甘延寿も遂に従い、軍を統率した。
  • 漢兵と胡兵あわせて四万余。二人は上疏して自ら矯制の罪を申告し、その日のうちに軍を進めた。

進軍と康居貴人の離反

  • 軍は六校に分かれ、三校は南道から葱嶺を越えて大宛へ、三校は都護自ら北道から温宿・赤谷を経て烏孫を過ぎ、康居方面へ向かった。
  • 途中、康居副王の抱闐が数千騎で赤谷城東を侵し、大昆彌の民を千人以上殺して家畜も奪っていた。
  • 陳湯は胡兵に追撃させ、四百六十人を殺し、連れ去られた住民四百七十人を救出して大昆彌へ返し、家畜は軍糧に充てた。
  • また抱闐の貴人伊奴毒を捕え、康居東界に侵入して略奪しないよう通告した。
  • さらに密かに康居貴人屠墨を呼んで威信を示し、酒を飲んで盟約して帰した。
  • その後、康居貴人の貝色子男開牟も捕えて道案内に用いた。彼は屠墨の母方の叔父で、いずれも郅支を怨んでいたため、郅支の事情を詳しく漢軍に知らせた。

郅支城攻防

  • 漢軍が城近くに来ると、郅支は使者を出して来意を問うた。
  • 甘延寿・陳湯は、以前の上書で「困窮して漢に帰服し、入朝したい」と言っていたので、天子が哀れみ、都護将軍を迎えに遣わしたのだと答えた。
  • そのうえで、遠来したのに名王や大人が出迎えにも来ないのは客主の礼を失していると責めた。
  • 翌日、城の三十里手前に布陣すると、郅支城上には五色の旗が立ち、甲兵が城に上り、騎兵や歩兵が門前で魚鱗陣を敷いていた。
  • 漢軍は鼓の音を合図に四面から城を包囲し、塹壕を掘って門を塞ぎ、楯と戟弩を用いて攻撃した。
  • 外城は重木で造られており、中からの射撃で被害も出たが、漢兵は薪を積んでこれを焼いた。
  • 夜、郅支は一時城を脱出しようとしたが、康居が漢の内応をしているのではないかと疑い、また烏孫など諸国兵が来ていると聞いて行き場がないと悟り、結局城に戻って籠城を選んだ。
  • 単于は甲を着て楼上に立ち、諸閼氏・夫人ら数十人も弓を取って応戦したが、単于は鼻に矢を受け、夫人にも死者が出た。
  • 夜半を過ぎると木城が破られ、守兵は土城へ退いた。
  • その間、康居兵一万余騎が四方を取り巻いて漢軍と呼応しつつ攻めたが、たびたび撃退された。
  • 明け方、四面で火が上がると、漢軍は歓呼して総攻撃し、鉦鼓の音が地を震わせた。
  • 漢兵は楯を押し立てて土城内に突入し、単于の男女百余人が大内に逃げ込んだ。
  • 漢兵が放火して乱入すると、郅支単于は創を受けて死に、軍候仮丞杜勲がその首を斬った。
  • 漢の使節二本と、谷吉らが持参した帛書も回収された。
  • 鹵獲品は得た者に分配された。
  • 斬首は閼氏・太子・名王以下千五百十八級、生け捕り百四十五人、降者千余人であった。降った者は出兵した諸国十五王に分配した。