資治通鑑漢紀二十一 孝元皇帝下 建昭 四年 前35年
郅支首の到着と処置
- 春正月、郅支単于の首が京師に届いた。
- 甘延寿・陳湯は上疏し、天下は本来一統されるべきであり、郅支は大夏以西からも「漢は彼を臣とできない」と見られていたので、この誅伐は強漢の威を示すものだと述べた。
- 二人は、その首を蛮夷邸のある稾街に懸け、遠方の異族にも「強漢を犯せば遠くとも必ず誅する」と示すべきだと請うた。
- しかし丞相匡衡らは、春は骸骨を収める季節であるから長く晒すべきでないと主張した。
- 詔して十日間だけ懸け、その後に埋葬させ、郊廟に報告し、天下に大赦し、群臣に上寿させて酒宴を開いた。
中山王の死と太子への不信
- 六月甲申、中山哀王が死去した。皇帝の年少の弟で、太子とはともに遊学し育った仲であった。
- 皇帝は太子が弔問に来る姿を見て、中山王を思い出して悲しみを抑えられなかった。
- ところが太子は、前に進み出ても十分に哀しみを表さなかったため、皇帝は「仁慈のない者がどうして宗廟を奉じ、民の父母となれようか」と激しく不快に思った。
- このとき駙馬都尉侍中の史丹が太子家を監護していた。
- 皇帝が史丹を責めると、史丹は、自分が陛下の悲痛が重くなりすぎぬよう、太子に涙を抑えるよう命じたのだと弁明した。
- 皇帝はこれを信じ、怒りを解いた。
地震・山崩れ
- 藍田で地震があり、山崩れによって霸水が堰き止められた。
- また安陵の岸も崩れ、涇水を塞いだため、涇水は逆流した。