資治通鑑漢紀二十一 孝元皇帝下 竟寧 元年 前33年

呼韓邪単于の入朝と王昭君

  • 春正月、匈奴の呼韓邪単于が入朝した。
  • 単于は、自ら漢室の婿となって親しみを深めたいと述べた。
  • そこで皇帝は後宮の良家の娘、王嬙、字を昭君を単于に与えた。
  • 単于は大いに喜び、上谷から敦煌にいたる辺境を代々守って漢に尽くしたい、辺塞の備えを軽くして天子の民を休ませてほしいと上書した。

匈奴の辺塞撤廃案を巡る議論

  • 皇帝はこの提案を有司に諮ったが、多くは便利だとした。
  • ただし郎中侯応だけは、辺事に通じる立場から強く反対した。
  • 侯応は、陰山の地はもともと冒頓以来の匈奴の苑囿であり、武帝がこれを奪って塞徼・亭隧・屯戍を設けたことでようやく辺境が安定したのだと論じた。
  • もし塞兵を撤けば、匈奴に大利を示すことになり、外城・亭隧の縮小をこれ以上進めるのは危険だとした。
  • また、匈奴が必ず約を守る保証はなく、塞は匈奴防備だけでなく属国や降民の離反防止、羌や辺民・奴婢・盗賊の逃亡防止にも役立っているとして、十の理由を挙げて撤兵反対を述べた。
  • 皇帝はこれを容れ、辺塞撤廃の議を止め、車騎将軍許嘉に単于へ口頭で説明させた。
  • 詔では、中国の関梁・障塞は匈奴だけでなく国内の奸邪をも防ぐものであり、単于の厚意は評価するが、備えはやめられないと伝えた。
  • 単于は、自分は大計を知らなかったと謝した。

左伊秩訾との再会

  • かつて左伊秩訾は呼韓邪に漢への帰順策を授け、それによって匈奴は安定した。
  • しかし後にその功を誇ると讒言され、呼韓邪に疑われたため、恐れて千余人を率いて漢に降り、関内侯となっていた。
  • 今回、呼韓邪が入朝して伊秩訾と会うと、昔の助言のおかげで匈奴が今日まで安寧であると謝り、天子に願って帰国させたいと申し出た。
  • しかし伊秩訾は、単于の安定は天命と漢の庇護によるもので、自分の力ではないとし、すでに漢に降った以上、再び匈奴に帰るのは二心になるとして辞退した。
  • 呼韓邪は王昭君を寧胡閼氏と号し、彼女との間に一子をもうけ、右日逐王とした。

李延寿の死と馮野王不登用

  • 皇太子の冠礼が行われた。
  • 二月、御史大夫李延寿が死去した。
  • かつて石顕は、馮奉世父子が公卿として著名で、娘が昭儀として後宮にあるのを見て、自らこれに取り入ろうとしていた。
  • 昭儀の兄の馮逡を侍中にしようと薦めたが、馮逡は召見の際、石顕の専権を告発したため、皇帝は怒って採用をやめた。
  • 御史大夫が空席になると、多くがその兄の大鴻臚馮野王を推した。尚書の選第でも野王は中二千石中の第一とされた。
  • しかし石顕は、野王の才を認めつつも、昭儀の兄を三公にすれば後世に後宮縁故と批判されると進言した。
  • 皇帝はこれに同意し、野王の任用を見送った。

人事と召信臣

  • 三月丙寅、詔して大鴻臚馮野王は剛強堅固で欲がなく、少府五鹿充宗は弁舌に優れ、太子少傅張譚は廉潔節倹であると評価した。
  • そのうえで、少府五鹿充宗ではなく張譚を御史大夫に任じた。
  • 河南太守の召信臣を少府にした。
  • 召信臣は以前に南陽太守を務め、のち河南太守となったが、治績は常に第一で、民を子のように扱い、農業や水利を勧めて戸口を倍増させたため、官民から「召父」と呼ばれていた。
  • 癸卯、孝恵皇帝の寝廟園、孝文太后・孝昭太后の寝園を復した。

郅支征討の論功

  • かつて石顕は姉を甘延寿に嫁がせようとしたが、延寿は受けなかった。
  • そのため、郅支討伐から帰還した甘延寿・陳湯に対し、丞相・御史とともに石顕も冷淡で、十分に報いようとしなかった。
  • 陳湯はもともと貪欲で、鹵獲品を持ち帰る際に違法行為も多かったため、司隷校尉が道中の郡県へ文書を送り、兵士たちを拘束して調べた。
  • 陳湯は上疏して、万里の外で郅支を滅ぼした軍に対し、本来なら使者が出迎えて労うべきなのに、かえって逮捕・取調べをするのは郅支への復讐に手を貸すようなものだと訴えた。
  • 皇帝は直ちに兵士を釈放し、県道に酒食を出して軍を慰労させた。
  • しかし論功の段になると、石顕と匡衡は、二人は矯制によって兵を起こし、たまたま成功したにすぎず、これに重賞を与えれば今後の使者が危険を冒して勝手に戦端を開くようになると反対した。
  • 皇帝は内心では功績を認めながら、匡衡と石顕の議論に公然と逆らうことをためらい、長く決断できなかった。

劉向の弁護と封賞

  • そこで旧宗正の劉向が上疏し、郅支は使者を殺し漢威を辱めた大罪人であり、甘延寿・陳湯は聖意を奉じて絶域に入り、三重城を陥して郅支の首を斬り、谷吉の恥を雪ぎ、呼韓邪の帰服と万世の安をもたらしたと称えた。
  • 彼は、方叔・吉甫や鄭吉・常恵、さらには李広利の前例まで引いて、大功をもって小過を覆うべきであり、論功は月を越さずに行うのが軍政の常だと主張した。
  • 皇帝はついに詔して甘延寿・陳湯の罪を赦し、改めて公卿に封爵を議させた。
  • 議者は本来軍法に従えば単于を捕斬した功であるとしたが、匡衡・石顕は「郅支は亡命して絶域で単于を称したにすぎず、真の単于ではない」として異論を唱えた。
  • 皇帝は安遠侯鄭吉の先例を用い、夏四月戊辰、甘延寿を義成侯に封じ、陳湯には関内侯の爵を与え、ともに食邑三百戸、黄金百斤を賜った。
  • また甘延寿を長水校尉、陳湯を射声校尉に任じた。
  • こののち杜欽は、先年の馮奉世の莎車撃破の功も追録すべきだと上疏したが、皇帝は先帝代のこととして取り上げなかった。
  • 荀悦は、矯制は軽々しく認められないが、功と過を比較衡量して賞罰を決めるべきだと論じている。

太子交代の危機と史丹の進言

  • 皇太子は若いころ経書を好み、寛博で慎重だったが、後には酒や宴楽を好むようになった。
  • これに対し、山陽王康は才芸があり、母の傅昭儀も寵愛されていたため、皇帝はたびたび彼を後継にしようと考えた。
  • 晩年の皇帝は病がちで政務を親ら見ず、音楽に耽り、時には殿下に鼙鼓を置き、自ら銅丸を投げて鼓の節に当てて遊んだ。
  • 後宮や側近で音律に通じる者も真似できなかったが、山陽王はこれができたため、皇帝はたびたびその才を褒めた。
  • 史丹は、真の才とは学問に敏く温故知新できることであり、もし楽器の技だけで人を評価するなら、楽人の陳恵や李微のほうが匡衡より上で丞相にすべきことになる、と諫めた。皇帝は黙って笑うだけだった。
  • 病が重くなると、傅昭儀と山陽王康ばかりがそばにおり、皇后と太子はほとんど拝謁できなくなった。
  • 皇帝は景帝が膠東王を立てた故事を尚書に何度も尋ね、周囲は後継変更を疑った。
  • 太子の母方の長舅である陽平侯王鳳や、皇后・太子は進退窮まっていた。
  • 史丹は親近の臣として看病に侍し、あるとき皇帝が一人で臥している隙に青蒲の上に伏して涙ながらに進言した。
  • 彼は、太子は嫡長として十余年立てられ、天下の人心も帰しており、もし山陽王への変更があるなら公卿以下は必ず死をもって争う、自分もまず死を賜って群臣に示してほしいとまで訴えた。
  • 皇帝はもともと仁愛があり、史丹の言に深く感じて、「二王が幼く心配していただけで、そのような議はない。皇后は慎み深く、先帝も太子を愛した。自分がどうしてそれに背けようか」と答えた。
  • 史丹が退こうとすると、皇帝はさらに、自分は病が重く回復できまいから、太子をよく補導して自分の意思に背かせるなと命じた。
  • こうして太子の後継は確定した。右将軍光禄大夫王商、中書令石顕も太子擁護に一定の力を尽くした。

元帝の死と成帝即位

  • 夏五月壬辰、元帝が未央宮で崩じた。年四十三であった。
  • 班彪は、元帝は多才で史書・琴瑟・洞簫・作曲・歌唱にすぐれ、幼くして儒を好んだが、即位後は儒生を用いながらも文義に牽かれて優柔不断となり、宣帝の事業を衰えさせたと評している。
  • ただし、寛弘でへりくだり、恭倹・温雅の風は古の君主に近かったとも評価した。

宗廟再整理と新政開始

  • 匡衡は、病のために以前復した諸祠は結局福をもたらさなかったとして、衛思后・戾太子・戾后の園はまだ親が尽きていないから残し、孝恵・孝景の廟および太上皇・孝文太后・孝昭太后・昭霊后・昭哀后・武哀王の祠は再び廃すべきと奏し、認められた。
  • 六月己未、太子が皇帝位に即いた。高廟に謁し、皇太后を太皇太后、皇后を皇太后と尊んだ。
  • さらに元舅の侍中・衛尉・陽平侯王鳳を大司馬大将軍とし、尚書事を領させた。王氏が権力を握る起点である。
  • 秋七月丙戌、孝元皇帝を渭陵に葬った。崩御から葬礼まで五十五日であった。
  • 天下に大赦した。

匡衡の新帝への上疏

  • 丞相匡衡は上疏し、新帝が父帝への追慕を尽くして遊猟の楽しみに耽らないことを称えつつ、なおいっそう慎終追遠の徳を深めるべきだと勧めた。
  • また、婚姻こそ万福の源であり、妃匹の選定が国家興亡の基礎であるとして、『関雎』以来の教えを引き、徳ある者を取り、声色や技能だけをもって近づける者を遠ざけるよう求めた。
  • 六経・論語・孝経を究め、動静・起居・朝会・饗宴に至るまで節文を正し、群臣に盛徳の光を仰がせるべきだとも説いた。
  • とくに正月初めの路寝での朝賀と饗宴は、新政の基礎を定める慎始の場であるから、行動の一つ一つに心を留めるよう願った。
  • 皇帝はその言をうやうやしく受け入れた。