資治通鑑漢紀二十 孝元皇帝上 初元 二年 前47年

春正月・甘泉への行幸

  • 春正月、帝は甘泉に行幸して泰畤に郊祀した。

蕭望之・周堪らの進用

  • 楽陵侯史高が外戚として尚書事を統べ、前将軍蕭望之と光禄大夫周堪がその副となった。
  • 蕭望之と周堪はいずれも儒者で、太子時代からの師傅として旧恩があり、帝はしばしば宴見して政治の治乱や王道について意見を聞いた。
  • 蕭望之は宗室で経学に明るく徳行ある者として劉更生を散騎諫大夫給事中に取り立て、侍中金敞とともに左右で拾遺・補闕に当たらせた。

弘恭・石顕との対立

  • 中書令弘恭、僕射石顕は宣帝以来、宮中の文書実務を掌握し、法令・文法にも通じていた。
  • 元帝は病がちで、石顕には外戚的な外部勢力がなく、専一で信任できると見て政務を委ねたため、朝廷は石顕に傾いた。
  • 石顕は主君の細かな意向を察するのに長ける一方、内心は険しく、巧みな弁舌で人を中傷し、少しの怨みでも危険な法で陥れた。
  • 蕭望之らは、国家の枢機である中書を公正な士人に任せるべきで、宦官が中書を握るのは古制に反すると建白した。
  • これにより、史高・弘恭・石顕らと強く対立した。

鄭朋・華龍の讒言

  • 会稽の鄭朋は陰で蕭望之に取り入ろうとし、史高や許史一族の不正を告発した。
  • 周堪はその上書を見て金馬門で待詔させたが、鄭朋は蕭望之に近づき、自分を用いれば大事を成せるような口ぶりで働きかけた。
  • しかし蕭望之は後にその邪な人柄を見抜いて断交したため、鄭朋は怨み、逆に許氏・史氏側へ寝返った。
  • 鄭朋は、自分の告発内容は周堪や劉更生に教えられたものだと主張し、華龍も加わって、蕭望之らが車騎将軍史高を退け、許史を疎外しようとしていると石顕らに訴えた。

蕭望之・周堪・劉更生の失脚

  • 弘恭・石顕は、蕭望之らが朋党を作り、大臣を誹謗し、外戚との仲を裂いて権勢を独占しようとしていると奏上し、廷尉に引き渡すよう求めた。
  • 帝は即位間もなく、廷尉への召致が実質的に投獄を意味することを十分理解しないまま許可した。後で獄につながれたと知って驚いたが、弘恭・石顕は謝罪しつつも、史高を通じて「新帝が師傅や九卿をまず獄に下したとなれば聞こえが悪いので、決裁して免官にとどめるべきだ」と進言させた。
  • こうして蕭望之は前将軍・光禄勲の印綬を収められ、周堪・劉更生とともに庶人とされた。

地震・諸王の立封

  • 二月丁巳、弟の竟を清河王に立てた。
  • 戊午、隴西で地震が起こり、城郭や家屋が崩れて多くの死傷者が出た。
  • 三月、広陵厲王劉胥の子・霸を広陵王に立てた。

公苑の整理と太子の立后

  • 黄門所属の犬馬、水衡の禁囿、宜春下苑、少府佽飛外池、厳籞池田などを貧民に貸し与えた。
  • あわせて天下に大赦し、茂材異等・直言極諫の士を求めた。
  • 夏四月、皇子驁を皇太子に立てた。

張敞をめぐる議論

  • 鄭朋は、先帝の名臣だった太原太守張敞を皇太子の師傅にすべきだと推挙した。
  • 帝が蕭望之に問うと、蕭望之は張敞を有能な治吏ではあるが、軽躁で師傅の器ではないと評した。
  • 帝はなお左馮翊に召そうとしたが、張敞は病死した。

蕭望之の名誉回復の兆しと再度の地震

  • 帝は蕭望之に関内侯の爵を与え、朔望に給事中として朝参させた。
  • このころ関東では飢饉が深まり、斉地では人肉を食う事態が起きた。
  • 秋七月己酉、再び地震があった。
  • 帝は周堪・劉更生を再徴して諫大夫にしようとしたが、弘恭・石顕が妨げて中郎にとどめさせた。

劉更生再失脚

  • 帝はなお蕭望之を重んじて丞相に用いようと考えたため、弘恭・石顕や許史兄弟は強く警戒した。
  • そこで劉更生の母方親族から上書させ、地震は蕭望之・周堪・劉更生の「三独夫」のせいではなく、弘恭・石顕らが賢者を蔽っているためだと訴えた。
  • 弘恭・石顕はこれが劉更生の策だと見抜き、取り調べて自白させ、劉更生を逮捕して再び庶人とした。

蕭望之の自殺

  • さらに蕭望之の子・伋が父の旧件を訴え、有司は父の罪状は明白で讒訴ではないが、子に上書させたのは大臣として不敬だと奏した。
  • 弘恭・石顕は、蕭望之は高節で屈辱に耐えない人物だから、牢獄に追い込めば心を折れると進言した。
  • 冬十二月、詔書を謁者に持たせて蕭望之邸に急行させ、同時に太常から執金吾の車騎を出して邸宅を包囲した。
  • 使者が到着すると、蕭望之は門下の朱雲に相談し、老いて獄に入って命乞いをするのは恥だと言って、鴆を飲んで自殺した。
  • 帝はその報を聞いて大いに驚き、食事を止めて涙したが、弘恭・石顕を厳罰にはせず、ただ免冠謝罪させるにとどめた。
  • その後も蕭望之を忘れず、毎年墓に使者を遣わして祭らせた。

年末の動き

  • この年、弘恭が病死し、石顕が中書令となった。

珠厓問題の再燃

  • 武帝以来置かれていた珠厓・儋耳の諸郡では、海中の州に住む土民がたびたび反乱し、そのたび漢は征討していた。
  • 宣帝のころにも再反乱があり、元帝即位の翌年に山南県が反し、さらに諸県が続いて連年平定できなかった。
  • 帝は大軍派遣を考えたが、待詔賈捐之がこれに反対した。

賈捐之の珠厓放棄論

  • 賈捐之は、聖王の支配は徳化の及ぶ所に限るべきで、遠方の蛮夷に無理に兵を用いれば、内を疲弊させるだけだと論じた。
  • 秦や武帝の遠征を引いて、重税・賦役・軍発が民の困窮と離散を招いたとし、今の関東は飢饉で妻子を売るほどの窮状であり、珠厓のために兵を海の彼方へ駆り出すのは国家の利益にならないと述べた。
  • 珠厓の民俗や風土は中華の郡県支配に適さず、たとえ珠・犀・玳瑁があっても、そのために大量の兵糧や財貨を費やす価値はないと説いた。
  • 丞相于定国も、過去の征討では官吏・兵士・運送要員に甚大な損耗が出て、巨費を投じても完全服属させられなかったと述べ、賈捐之に同意した。
  • 帝はこの意見を採用した。