資治通鑑漢紀二十 孝元皇帝上 初元 一年 前48年
春正月・即位直後の措置
- 春正月辛丑、孝宣皇帝を杜陵に葬った。あわせて天下に大赦が行われた。
- 三月丙午、王氏を皇后に立て、皇后の父・王禁を陽平侯に封じた。
貧民救済と倹約令
- 三輔・太常・郡国が持つ公田や苑のうち、削減できるものを整理し、その利益を貧民の生業再建に充てた。
- 財産が千銭に満たない者には、種子や食糧を貸し与えた。
- 外祖父の家に連なる許嘉を平恩侯に封じた。
- 夏六月、疫病流行を受けて、太官の食膳を減らし、楽府の人員や苑馬を削って困窮民救済に回した。
水害と飢饉
- 関東の十一郡国で大水害が起こり、飢饉となって、ひどい所では人が人を食う事態にまで至った。
- 朝廷は周辺郡から銭や穀物を移して救済に当たらせた。
王吉・貢禹の登用
- 帝はかねて琅邪の王吉、貢禹が経学に明るく清廉であると聞いており、使者を送って招いた。
- しかし王吉は途中で病没し、貢禹だけが到着して諫大夫に任ぜられた。
- 帝はしばしばへりくだって政治を問い、貢禹は節倹を中心とする意見を上奏した。
貢禹の上奏と宮廷の縮減
- 貢禹は、古は租税が軽く、余計な賦役がなかったため民は富み足りていたが、後世は奢侈が甚だしく、君臣ともにそれをまねていると論じた。
- とくに服官・厩馬・後宮・園陵の維持費が重すぎるとし、乗輿の器物を大幅に削減し、後宮の女性を整理し、陵園に残された女性のうち子のない者を帰し、苑地の多くを廃して救荒に回すべきだと述べた。
- 帝はその大意を採用し、普段ほとんど行幸しない宮館の修理停止、馬や苑中の獣の飼養削減を命じた。
匈奴への支援と西域経営
- 呼韓邪単于が、民衆が困窮していると再び上書してきたため、雲中・五原両郡から穀物二万斛を送って支給した。
- この年、戊校尉・巳校尉を置き、車師の旧地に屯田させた。
司馬光の論評
- 司馬光は、貢禹の議論は節倹そのものとしては正しいが、当時の最大の患いは優柔不断な君主のもとで讒佞が権を握ることだったのに、そこを先に論じなかったのは不十分だと評している。