資治通鑑漢紀二十 孝元皇帝上 永光 元年 前43年
春正月・甘泉からの還幸
- 春正月、帝は甘泉に行幸して泰畤を郊祀し、その後とどまって射猟を行った。
- 御史大夫薛広徳は、関東の民が流離している時に帝がなお遊猟し、従官や兵士を疲れさせているのは痛ましいとして、速やかに宮へ戻り、百姓と憂楽を共にしてほしいと上書した。
- 帝はその日のうちに還宮した。
人材登用策
- 二月、丞相・御史に、質朴・敦厚・遜譲・有行の者を挙げさせた。
- 光禄にも毎年この基準で郎・従官を考課させた。
三月・大赦と異常気象
- 三月、天下に大赦があった。
- 雨雪と降霜があり、桑が枯れた。
秋・宗廟行幸と薛広徳の直諫
- 秋、酎祭のため宗廟へ向かい、便門から出て楼船に乗ろうとした。
- 薛広徳は乗輿の前で冠を脱ぎ、橋を使うよう強く諫め、聞き入れられねば自刎して血で車輪を汚し、宗廟へ入れなくするとまで言った。
- 帝はいったん不快としたが、張猛が「聖主は危うきに乗らず、安きに就く」と取りなしたため、橋を用いた。
飢饉と三公の退任
- 九月、降霜で作物が枯れ、天下は大飢饉となった。
- 丞相于定国、大司馬車騎将軍史高、御史大夫薛広徳は、災異を理由にそろって乞骸骨した。
- 帝は安車駟馬と黄金六十斤を賜って退かせ、太子太傅韋玄成を御史大夫とした。
- 薛広徳は帰郷後、賜った安車を懸けて子孫に示し、栄誉とした。
孔霸への待遇
- 帝は太子時代に孔霸から『尚書』を学んでおり、即位後、関内侯に封じて褒成君と号し、給事中とした。
- 帝は孔霸を宰相にしたいと考えたが、孔霸は自分の徳では位に堪えないとして、御史大夫の欠員のたびに再三固辞した。
- 帝はその誠実さを深く理解し、無理には用いなかったが、いっそう敬して厚く賞賜した。
王接の任命
劉更生の上書と党争批判
- 石顕は周堪・張猛らを憚り、たびたび彼らを讒していた。
- 劉更生はその危険を恐れ、上書して、朝廷の不和が災異を招いていると論じた。
- 舜・周公・孔子の時代の正邪対立を引きつつ、今は賢不肖が混じり、忠讒が並び進み、上書や告発が公車に満ち、北軍で獄があふれていると述べた。
- 根本原因は、帝が疑い深く、いったん賢者を用いても讒言を聞けば退けてしまうことにあるとし、佞邪を遠ざけ、正士の道を開き、決断して揺らがぬ政治を行うべきだと強く進言した。
- だが石顕はこの書を見て、ますます許氏・史氏と結び、更生らを怨んだ。
夏寒・周堪失脚への流れ
- この年は夏に寒冷があり、日色も青く光を失った。
- 石顕や許氏・史氏は、これを周堪・張猛が用いられている咎だと説いた。
- 帝は内心では周堪を重んじつつも、世評が重なることを懸念した。
楊興・諸葛豊の介入
- 長安令楊興は才をもって帝に取り入っており、ふだんは周堪を称賛していた。ところが帝が真意を探ると、今度は周堪は朝廷でも郷里でも不適格で、処刑すれば重すぎるが、爵を与えて政務から遠ざけるのが最善だと答えた。
- 司隷校尉諸葛豊も、かつては剛直で知られたが、前には周堪・張猛を褒めながら、のちにはその罪を告発した。
- 帝は諸葛豊の前後不一致を責め、証拠なき告発だとして庶人に落とした。
- 一方で周堪を河東太守、張猛を槐里令に左遷した。
賈捐之・楊興と石顕
- 賈捐之は楊興と親しかったが、以前から石顕の短所をしばしば論じたため、官に就けず、帝への拝謁もまれだった。
- 楊興は、石顕に迎合すれば出世できると勧め、賈捐之も一時これに従って石顕を褒める奏を作り、石顕に関内侯の爵を与え、その兄弟を諸曹に取り立てるよう推した。
- あわせて楊興を京兆尹試補にするよう推薦した。
- 石顕はこれを知ると、かえって帝に訴え、二人を獄に下した。
- 石顕自ら取り調べ、互いに虚偽の推薦で高位を求めたとして、賈捐之を棄市、楊興を髠鉗の上、城旦とした。
諸侯王の改封と匈奴情勢
- 清河王竟を中山王に移した。
- 呼韓邪単于の民衆はさらに増え、塞下の禽獣を食べ尽くすほどになったため、大臣たちは故地への北帰を勧めた。
- 郅支を恐れる必要も薄れたので、ついに北へ帰り、散っていた民も次第に戻って、国勢は安定した。