資治通鑑漢紀二十 孝元皇帝上 初元 五年 前44年

春・周後の封建と雍への行幸

  • 春正月、周の後裔である周子南君の家を継ぐ姫延を周承休侯に封じた。
  • 帝は雍に行幸し、五畤を祀った。

夏四月・彗星と倹約強化

  • 夏四月、参宿に彗星が現れた。
  • 帝は貢禹ら儒者の意見を受けて、太官では日々の屠殺をやめ、供膳を半減させ、乗輿の馬の飼養も祭祀・巡狩などの正用に足る程度に限るよう命じた。
  • さらに角抵、上林のうち普段使わない宮館、斉の三服官、北假田官、塩鉄官、常平倉などを罷めた。
  • 博士弟子の員数制限も外し、一経に通じる民はみな徭役を免じて学問を奨励した。
  • また刑罰に関する七十余事を省いて、法を軽くした。

貢禹の御史大夫就任

  • 陳万年が卒し、六月辛酉、長信少府貢禹が御史大夫となった。
  • 貢禹は前後あわせて数十回も得失を上書し、その質直さを帝は喜び、多くを採用した。

郅支単于の求侍子と谷吉の派遣

  • 匈奴の郅支単于は、自分が漢から十分支援を受けず、呼韓邪単于だけが保護されていることを怨んでいた。
  • そこで使者を送り、献物を奉って、以前預けた侍子の送還を求めた。
  • 貢禹や匡衡は、郅支はまだ真に帰化しておらず、遠方でもあるから、子は塞まで送って返すだけでよいと主張した。
  • しかし衛司馬谷吉は、ここで送還をやめれば恩を棄てた形になり、匈奴の帰服心を失わせると上書し、自ら単于庭まで送り届けたいと願い出た。
  • 帝はこれを許したが、谷吉が到着すると、郅支単于は怒って谷吉らを殺した。

郅支西遷と康居との結合

  • 郅支単于は漢に対して負い目を感じ、しかも呼韓邪が強大化したのを恐れていた。
  • ちょうど康居王もたびたび烏孫に苦しめられていたため、郅支を東辺へ迎え、共に烏孫を攻めてその地に立てれば、長く匈奴の脅威を防げると考えた。
  • 康居からの使者が堅昆にいた郅支に通じると、郅支は大いに喜び、兵を率いて西へ移動した。
  • 途中、寒さで多くが死に、わずか三千人ほどで康居に到達した。康居王は娘を郅支に嫁がせ、郅支もまた娘を康居王に与えた。
  • その後、郅支は康居の威を借りて諸国を脅し、たびたび兵を借りて烏孫を攻撃し、赤谷城近くまで深入りして人民や家畜を掠め取った。烏孫は追撃できず、西辺は長く空虚になった。

年末の人事

  • 冬十二月丁未、貢禹が卒した。
  • 丁巳、長信少府薛広徳が御史大夫となった。