資治通鑑漢紀二十 孝元皇帝上 永光 二年 前42年

春・三公人事と日食

  • 春二月、天下に大赦があった。
  • 丁酉、御史大夫韋玄成が丞相となり、右扶風鄭弘が御史大夫となった。
  • 三月壬戌朔、日食が起こった。

匡衡の上疏

  • 夏六月、再び大赦があった。
  • 帝は給事中匡衡に、地震や日食の原因について尋ねた。
  • 匡衡は、近年しばしば大赦を行って民に更生の機会を与えているのは結構だが、俗の根本が改まらぬままでは、赦の翌日にまた犯法するようなことが起こると述べた。
  • 当時の世俗は、財を貪り義を軽んじ、音楽・女色を好み、奢侈をまね、親族や婚姻関係の恩義も薄く、利を求めて幸運にすがる風が強いと分析した。
  • その根本は朝廷にあり、上が専断し争勝し好利なら、下も同じように争い盗むようになると説いた。
  • したがって、賢者を位に置き、能者に職を布き、礼を尊び、百僚が敬譲するよう京師から風俗を正すべきで、それが外郡へ波及してこそ教化が成ると論じた。
  • また、天人感応の理から、地震は静なるものが動いた徴、日食は明なるものが暗んだ徴であり、靡麗を省き、制度を考え、忠正を近づけ、巧佞を遠ざけるべきだと進言した。
  • 帝はこれを喜び、匡衡を光禄大夫に昇進させた。

荀悦の赦についての論評

  • 荀悦は、赦は常法ではなく、秦末漢初や七国の乱、武帝末年・巫蠱の禍、後漢光武の中興のような大乱後には必要だが、平時に乱用すべきものではないと論じている。

秋七月・隴西羌の反乱

  • 秋七月、隴西の羌、彡姐の旁種が反乱した。
  • 帝は丞相韋玄成らを召して対策を議したが、凶年続きで朝廷が憂えていたさなかで、しかも羌変が起きたため、玄成らは明確な答えを出せなかった。

馮奉世の出兵論

  • 右将軍馮奉世は、羌が国境内で反きながら速やかに討たれなければ、遠方の蛮夷を威服できないと述べ、自ら討伐軍を率いることを願い出た。
  • 彼は、敵は三万人ほどと見積もり、法なら倍の六万人が必要だが、羌は弓矛主体で武器も鋭くないから四万人あれば一か月で決着できると論じた。
  • 丞相・御史・車騎将軍王接・左将軍許嘉らは、民が収穫期であり多くは発兵できないので、一万人を守備に充てれば足りると主張した。
  • これに対し馮奉世は、飢饉で士馬が疲弊し、守戦の備えも久しく弛んでいる今、兵少なく分屯すれば敵は侮って諸種が呼応し、結局は四万人以上の大戦になってしまうと強く反論した。
  • しかし請は通らず、二千人を増しただけで、奉世に一万二千騎を与え、「屯田」の名目で出した。
  • 典属国任立を護軍都尉、韓昌を偏裨として従わせた。

戦況悪化と大発兵

  • 隴西に至ると三方面に分屯したが、韓昌が先に二校尉を出して羌と戦わせたところ、敵勢は盛んで、二校尉はともに敗死した。
  • 馮奉世は地形・敵情・兵力を詳しく上申し、決着にはさらに三万六千人が必要だと訴えた。
  • これを受け、天子は大規模増援を決め、六万余人を発した。
  • 八月、太常の弋陽侯任千秋を奮武将軍に任じて援軍に加えた。

冬・羌の破走

  • 冬十月、諸軍はようやく隴西に集結した。
  • 十一月、総攻撃をかけると羌は大敗し、数千級の首級が挙がり、残余は塞外へ逃れた。
  • まだ完全決着前に、漢はさらに募兵一万人を発し、定襄太守韓安国を建威将軍に任じたが、出発前に羌破走の報が届いたため引き返した。
  • 朝廷は吏士を罷めたが、一部は要害に屯田させて備えとした。