資治通鑑漢紀十九 中宗孝宣皇帝 五鳳 二年 前56年
春正月 郊祀
五月―八月 重臣の交替と蕭望之の左遷
- 車騎将軍韓増が薨去した。
- 五月、将軍許延寿が大司馬車騎大将軍となった。
- 丞相丙吉は高齢で、皇帝から深く敬われていた。一方で蕭望之は心中で丙吉を軽んじており、皇帝はこれを快く思っていなかった。
- 丞相司直が、蕭望之は丞相に対する礼が驕慢で、また部下の私財を使って自家の取引に利益を与えさせたとして、逮捕して取り調べるよう奏請した。
- 秋八月壬午、詔により蕭望之は左遷されて太子太傅となった。
- 同時に、太子太傅黄霸が御史大夫に任じられた。
匈奴の戦乱 屠耆単于の死
- 呼韓邪単于は弟の右谷蠡王らを西へ派遣し、屠耆単于の駐屯地を襲って、一万余人を殺傷・略奪した。
- 屠耆単于はこれを聞くと自ら六万騎を率いて呼韓邪単于を攻めたが、大敗して自殺した。
- 都隆奇は屠耆単于の少子、右谷蠡王姑瞀楼頭を連れて漢へ逃れた。
- 車犂単于は東へ転じて呼韓邪単于に降った。
冬十一月 匈奴の降漢と楊惲の失脚
- 呼韓邪単于の左大将烏厲屈は、その父の呼遫累、烏厲温敦らとともに匈奴の混乱を見て、数万人を率いて漢に降った。烏厲屈は新城侯、烏厲温敦は義陽侯に封じられた。
- このころ李陵の子が再び烏藉都尉を立てて単于としたが、呼韓邪単于はこれを捕えて斬り、単于庭に復帰した。ただしその勢力は数万人にまで衰えていた。
- 他方、西辺では屠耆単于の従弟である休旬王が閏振単于を称し、東辺では呼韓邪単于の兄、左賢王呼屠吾斯が郅支骨都侯単于を称した。匈奴の分裂は続いた。
- 光禄勲楊惲は清廉ではあったが、自分の行いや才能を誇り、また人の隠れた欠点を暴くことを好んだため、朝廷に怨みを買っていた。
- 太僕戴長楽と不和になったのち、戴長楽を告発する上書が出たため、戴長楽は楊惲が人を教唆したと疑い、逆に楊惲を告発した。
- 告発内容には、楊惲が韓延寿のために弁護して助命を図ったこと、丘常との会話で自らも危ういと漏らしたこと、戴長楽に向かって天が曇って雨が降らないのは臣下に謀反の兆しがあるからだと語ったことなどが含まれていた。
- 事は廷尉に下され、于定国は楊惲を怨望による妖言と奏上した。
- 皇帝は誅殺までは忍びず、詔により楊惲と戴長楽をともに庶人に落とした。