資治通鑑漢紀十九 中宗孝宣皇帝 甘露 三年 前51年
春正月 呼韓邪単于の来朝
- 皇帝は甘泉に行幸し、泰畤で郊祀を行った。
- 匈奴の呼韓邪単于が来朝した。
- 謁見では藩臣と称しつつも名は呼ばれず、冠帯・衣裳・黄金・璽と草染めの綬・玉具剣・佩刀・弓矢・棨戟・安車・鞍勒・馬十五匹・黄金二十斤・銭二十万・多くの衣被・錦繡・帛・絮など、諸侯王に準ずる厚い賜与を受けた。
- 礼が終わると、使者が単于を先導して長平に宿らせ、皇帝は甘泉から池陽宮に宿った。
- 皇帝が長平阪に登ったとき、単于には拝礼させず、その左右当戸も列観を許された。渭橋のたもとには諸蛮夷の君長・王侯ら数万人が並び、皇帝を迎えて万歳を称した。
- 単于は長安の邸に入り、建章宮で酒宴と賜与を受け、二月に帰国した。
二月以後 呼韓邪の南留
- 呼韓邪単于は、自ら願って幕南の光禄塞下に留まり、もし急変があれば漢の受降城に入って保護を受けたいと申し出た。
- 漢は長楽衛尉董忠と車騎都尉韓昌に一万六千騎を率いさせ、さらに辺郡から兵馬を発して、単于を朔方の鶏鹿塞まで送り出した。
- また董忠らを留めて単于を護衛させ、服さない勢力を討つのを助けさせた。
- さらに辺境の穀米や乾飯三万四千斛を前後して転送し、呼韓邪の軍食を賄った。
- これ以前は、烏孫以西から安息に至る近匈奴諸国は皆、匈奴を恐れて漢を軽んじていたが、呼韓邪の来朝後はみな漢を尊ぶようになった。
麒麟閣の功臣図
- 皇帝は戎狄が賓服したのを見て、股肱の臣の功を思い、麒麟閣に功臣の像を描かせた。
- その容貌を写し、官爵姓名を記したが、霍光のみは名を記さず、「大司馬大将軍博陸侯霍氏」とした。
- ほかに張安世・韓増・趙充国・魏相・丙吉・杜延年・劉徳・梁丘賀・蕭望之・蘇武の十人を加え、合わせて十一人を表彰した。
- いずれも当世に功徳・名望のあった者で、宣帝の中興を助けた臣として、周宣王を輔けた方叔・召虎・仲山甫らに比せられた。
三月―五月 黄霸の死と学制整備
- 鳳凰が新蔡に集まった。
- 三月己巳、建成安侯黄霸が薨去した。
- 五月甲午、于定国が丞相となり、西平侯に封じられた。
- 太僕の陳万年が御史大夫に任じられた。
- また、諸儒に五経の異同を講論させ、蕭望之らがそれを整理して奏上し、皇帝自ら裁断した。
- その結果、梁丘氏の易、大夏侯・小夏侯の尚書、穀梁春秋の博士を立てた。
烏孫公主の帰国と後継
- 烏孫では大昆彌元貴靡と鴟靡がともに病死した。
- 解憂公主は上書して、老いて故郷を思うので、遺骸を漢土に葬りたいと願い出た。
- 皇帝はこれを憐れみ、迎え入れて、待遇を公主と同じにした。二年後に死去した。
- 元貴靡の子星靡が大昆彌を継いだが、まだ幼かった。
- 馮夫人は、烏孫に赴いて星靡を鎮撫したいと上書し、漢はこれを許した。
- 都護は、烏孫の大禄・大監にも金印紫綬を賜って大昆彌を補佐させるよう奏し、漢はそれを認めた。
- のちに段会宗が都護となって、亡命・反叛者を招き戻し、ようやく星靡の国を安定させた。
皇孫劉驁の誕生
- 皇太子に寵愛されていた司馬良娣が病没する際、自分が死ぬのは天命ではなく、他の後宮の女たちが呪詛して殺したのだと言い残した。
- 太子はこれを信じ、深く悲しんで怒り、病を発して元気を失った。
- 皇帝は皇后に命じ、太子を慰めるにふさわしい家人子を選ばせたところ、元城の王政君が選ばれて太子宮に入った。彼女は元繡衣御史王賀の孫娘であった。
- 丙殿で太子に会い、一度の召幸で懐妊し、この年に甲館画堂で後の成帝を生んだ。
- 皇帝はこの嫡系皇孫を愛し、自ら名を驁、字を大孫と付け、常に側近くに置いた。