資治通鑑漢紀十九 中宗孝宣皇帝 黄龍 元年 前49年

春正月―二月 呼韓邪再来朝

  • 皇帝は甘泉に行幸し、泰畤で郊祀を行った。
  • 匈奴の呼韓邪単于が再び来朝し、二月に帰国した。

郅支単于の西遷と北方制圧

  • 郅支単于は、呼韓邪が兵弱くして漢に降り、自力で匈奴の本拠へ戻れまいと見て、西へ移って右地を攻略しようとした。
  • 一方、屠耆単于の弟で、もと呼韓邪に仕えていた者が右地へ逃れ、二人の兄の残兵数千を集めて伊利目単于を称した。
  • 途中で郅支単于と遭遇して戦い、郅支はこれを殺してその兵五万余を併合した。
  • 郅支は、漢が兵糧を出して呼韓邪を助けていることを聞くと、右地にとどまっても匈奴全体を平定できないと判断し、さらに西へ進んで烏孫に近づき、その協力を求めた。
  • 小昆彌烏就屠は郅支の使者を殺し、八千騎を発して迎撃しようとしたが、郅支はその企てを察知して迎え撃ち、烏孫軍を破った。
  • さらに北へ進んで烏掲・堅昆・丁令の三国を攻め、これを併合した。
  • 郅支はしばしば兵を出して烏孫を攻め、常に勝利した。
  • 堅昆は単于庭の東七千里、車師の南五千里に位置し、郅支はそこに都した。

三月 星変と遺詔の準備

  • 三月、彗星が王良・閣道の星域に現れ、紫微に入った。
  • 皇帝は病に臥し、後事を託すべき大臣を選んだ。
  • 外戚の侍中楽陵侯史高、太子太傅蕭望之、少傅周堪を禁中に引見し、史高を大司馬車騎将軍、蕭望之を前将軍光禄勲、周堪を光禄大夫とし、ともに遺詔を受けて輔政し、尚書事を領させた。

冬十二月 宣帝崩御

  • 甲戌、宣帝は未央宮で崩じた。年四十三。
  • 史評では、宣帝の治は賞罰が明確で、名実を厳しく照合し、政事・文学・法律の士はその能を尽くし、技巧や工匠・器械の面でも元帝・成帝期には及ばないほどであったとされる。
  • また匈奴の内乱に際して、亡ぶべきものを退け、存すべきものを保つ政策をとり、北夷に威信を示し、単于をして慕義・稽首・称藩せしめたことは、祖宗の功業を輝かせ、後嗣に業を残した中興の事績であり、殷の高宗・周の宣王に比肩すると讃えられている。

癸巳 元帝即位

  • 癸巳、皇太子が皇帝位に即いた。
  • 高廟に謁し、皇太后上官氏を太皇太后とし、皇后を皇太后と尊んだ。