資治通鑑漢紀十七 中宗孝宣皇帝 元康 元年 前65年
春正月三月:亀茲王来朝と杜陵造営
- 春正月、亀茲王絳賓とその夫人が来朝した。夫人は公主の号を与えられ、夫妻ともに印綬と厚い賞賜を受けた。
- このころ杜陵の造営が始まり、丞相・将軍・列侯・二千石で資産百万円以上の者を杜陵へ移住させた。
- 三月、鳳凰が泰山に集まり、陳留で甘露が降り、未央宮にも甘露があったとして天下に赦が行われた。
- 有司は、悼園にある宣帝の父の陵園に尊号を付けるべきだと再び奏上し、「皇考」と称することになった。
夏五月冬:皇考廟と建章衛尉
- 夏五月、皇考廟を立てた。
- 冬、建章衛尉を置いた。これにより未央・長楽・建章・甘泉の各宮に、それぞれ衛尉が置かれる体制となった。
趙広漢の失脚
- 京兆尹の趙広漢は、旧家の子弟や新進の若者を好んで用い、鋭気ある断行で知られたが、その苛烈さがついに禍した。
- 私怨から男子栄畜を罪に落として殺したとの告発があり、丞相・御史が調査した。
- さらに、丞相夫人が侍婢を殺したと疑い、それを材料に丞相を脅そうとして、吏卒を率いて丞相府に入り、夫人を庭に跪かせて取り調べ、奴婢十余人を連れ去った。
- 丞相が上書して訴え、廷尉の調べで、侍婢は丞相の笞責ののち外第で死んだもので、趙広漢の言うような事件ではないと判明した。宣帝はこれを憎み、趙広漢を下獄した。
- 吏民数万人が宮門に詰めて泣き、彼の死を願って自分が代わりたいとまで言ったが、趙広漢は結局、腰斬に処された。
- もっとも、彼は京兆尹として清廉・明察で、豪強を抑え、小民に職分を得させたため、死後も百姓はその治を惜しみ、歌まで残した。
宋疇・蕭望之・尹翁帰
- 少府の宋疇は、鳳凰が彭城に下ったものの京師に達していないのだから吉祥とするには足りないと議し、泗水太傅に左遷された。
- 宣帝は博士・諫大夫から政事に通じた者を選んで郡国の守相に補し、蕭望之を平原太守とした。
- 蕭望之は、諫官をみな地方に出せば、朝廷には諍臣がいなくなって君主は自分の過ちを知れなくなると上疏した。宣帝はこれを容れて、ほどなく望之を少府に召し戻した。
- 東海太守の尹翁帰は高第で、右扶風に入った。彼は郡県の吏民の善悪を細かく把握し、適切な時機に罪を取り上げて衆を戒めたため、吏民は恐れて改行し、その一方で為政には温良さもあった。朝廷での名声も高かった。
莎車の変乱と馮奉世
- 烏孫公主の少子万年は、莎車王に愛されていた。王が死んで後継がなかったため、莎車人は漢により頼み、また烏孫にも配慮して、万年を王に立ててほしいと願った。漢はこれを許し、奚充国に送らせた。
- しかし万年は即位後暴悪で国人に悦ばれず、ほどなく先王の弟の呼屠徴が周辺諸国と共に万年と漢使奚充国を殺し、自立して王となった。
- そのころ匈奴はまた車師を攻撃し、莎車も「北道諸国はすでに匈奴に属した」と喧伝して、南道諸国を威圧し、鄯善以西の交通は絶えた。
- 都護鄭吉と司馬憙は北道にいたため、馮奉世は副使の厳昌と相談し、放置すれば莎車がますます強くなって西域全体が危うくなると判断した。
- そこで節をもって諸国王に命じ、南北道合わせて一万五千の兵を発し、莎車を攻めて城を抜き、莎車王を自殺に追い込み、その首を長安に送った。別の王族を立てると、諸国はみな平定された。
- 宣帝は韓増に「よい人材を推挙した」と賀し、奉世を賞した。
- だが少府蕭望之は、奉世には本来「客を送る」指示しかなかったのに、勝手に諸国の兵を発したのは命令違反であり、功はあっても後例にしてはならないと反対した。
- 宣帝はこの議論に従い、馮奉世を封侯せず、光禄大夫にとどめた。