資治通鑑漢紀十七 中宗孝宣皇帝 元康 三年 前63年

春三月:故昌邑王賀の処置と旧恩への報償

  • 春三月、故昌邑王賀を海昏侯に封じた。
  • 乙未、宣帝は、自分が微賤の頃に恩のあった者たちに報いる詔を出した。御史大夫丙吉、中郎将史曾、史玄、長楽衛尉許舜、侍中光禄大夫許延寿、そして故掖庭令張賀の功を挙げた。
  • 張賀の養子となっていた彭祖を陽都侯に封じ、張賀には追って陽都哀侯の諡を贈った。
  • 丙吉は博陽侯、史曾は将陵侯、史玄は平台侯、許舜は博望侯、許延寿は楽成侯に封じられた。
  • 張賀の遺した幼い孫の張霸は散騎中郎将とされ、関内侯を賜った。
  • かつて郡邸獄や養育で功のあった者も、恩の深浅に応じて官禄・田宅・財物を受けた。

丙吉の病と封侯

  • 丙吉は封侯に臨んで病み、宣帝は彼が起き上がれなくなるのを案じて、使者を遣わして病床で印綬を加えて封じようとした。
  • 太子太傅夏侯勝は、まだ死ぬ病ではない、陰徳ある者は必ず楽を享けて子孫に及ぶはずだと語った。
  • 実際、丙吉の病はほどなく快復した。

張安世の謹慎

  • 張安世は、父子ともに封侯し在位も長く、勢いが盛んすぎることを自ら不安に感じ、禄の返上を願った。
  • 宮中の都内には、安世が返納して帳簿に記されていない張氏名義の金銭が百万単位で蓄えられていた。
  • 安世は周密で、大政を定める会議に参与しても、決定後には病を称して引き下がり、詔が出て初めて驚いたように丞相府へ問い合わせるほどだった。朝廷の大臣たちは、彼が議論に加わっていたことさえ知らないほどであった。
  • 推薦した者が礼を言いに来ると、安世は賢者推薦に私謝は不要だと怒って取り次がず、功績ある郎が自分で昇進を訴えてきても、君主が知っていることだと退けた。のちにその郎は実際に昇進した。
  • また自分の家の勢いを抑えるため、子の張延寿を地方官に出した。北地太守に任じられたのち、老いた安世を思いやって、宣帝は再び延寿を左曹太僕に召し戻した。

夏四月:淮陽王の封建と疏広父子の引退

  • 夏四月丙子、皇子欽を淮陽王に立てた。
  • 皇太子は十二歳にして『論語』『孝経』に通じていた。
  • 太傅疏広は少傅疏受に、「足るを知れば辱められず、止まるを知れば危うからず」と語り、二千石に至り名も立った今こそ退くべきで、そうしなければ後悔があるとした。
  • その日のうちに父子そろって病を口実に辞表を出し、骸骨を請うた。宣帝はこれを許し、黄金二十斤を賜った。皇太子も別に五十斤を贈った。
  • 公卿や故人は東都門外に祖道の宴を設け、車数百両が送った。道ゆく人々は二人の賢を称え、泣く者もいた。
  • 帰郷後の疏広・疏受は、毎日金を使って一族や旧友を招き、楽しんだ。子孫のために産業を残すべきだと勧められても、旧来の田宅で衣食には足り、余財はかえって子孫の怠惰や過失を増やすだけだとして、郷党とともに恩賜を楽しむ道を選んだ。

黄霸の潁川統治

  • 潁川太守黄霸は、郵亭や郷官に鶏や豚を蓄えさせて鰥寡孤独を救わせ、そのうえで教令を整えた。
  • 父老・師帥・伍長を置いて民間に教えを広め、農桑・節用・殖財・植樹・畜養を奨励し、浮淫の費えを除かせた。
  • 施策は米塩のように細かく煩雑にも見えたが、黄霸は精力的にこれを推し進めた。民の話をよく聞き、表面の言葉の裏にある事情を探って照合したので、吏民はその知察の由来を知ることができず、神明のようだと称した。
  • 黄霸は教化を先にし、刑罰を後にし、長吏をなるべく全うさせることを務めた。たとえば許県の老いて耳の遠い県丞について、督郵が追放を願っても、廉吏であり、少し聞こえにくいだけなら補佐して用い続けるべきだと命じた。
  • 頻繁な交代は送迎費用や文書混乱、官物横領の機会を生み、かえって民の負担になるというのがその理由であった。
  • そのため潁川は戸口が年々増え、治績は天下第一とされた。のち京兆尹に召されたが、法に連座して秩を下げられ、再び潁川太守として八百石で戻された。