資治通鑑漢紀十四 世宗孝武皇帝 太始 三年 前94年

春正月・二月:東方巡幸

  • 武帝は甘泉宮に行幸した。
  • 二月には東海に赴き、赤鴈を得たのち、琅邪に至った。
  • 成山で日を拝し、さらに之罘に登り、大海に浮かんでから帰還した。

皇子弗陵の誕生

  • この年、皇子の弗陵が生まれた。母は河間の趙倢伃で、鉤弋宮に住んでいた。
  • 趙倢伃は十四か月の妊娠を経て出産したとされ、武帝は古の堯も十四か月で生まれたと聞いて、その産所の門を「堯母門」と名づけた。

司馬光の評:堯母門の命名

  • 司馬光は、君主の一挙一動は天下に知れわたるのだから慎重であるべきで、この時点では皇后も太子も健在だったのに、その門を「堯母門」と名づけたのは不適切だったと評している。
  • そのため、奸人たちは武帝の心中を推し量り、少子への偏愛から後継にしたい意向があると見抜き、やがて皇后・太子を危うくする思惑を抱き、巫蠱の禍へつながったとする。

江充の台頭

  • 趙の人である江充が水衡都尉となった。
  • もとは趙敬粛王の客だったが、趙太子丹に罪を得て都へ逃れ、太子丹の陰事を告発して太子を廃位に追い込んだ。
  • 武帝に召し出されると、体格と装いが目を引き、政事を語って気に入られた。
  • 直指繡衣使者となって貴戚や近臣の奢侈を厳しく摘発し、少しも遠慮しなかったため、武帝は忠直の士とみなして重用した。
  • 甘泉行幸中には、太子家の使者が馳道を走った件を法にかけた。太子が「車馬が惜しいのではなく、陛下に聞こえて普段から教育が足りないと思われるのを避けたい」と詫びても聞き入れず、奏上した。武帝は「人臣はかくあるべし」としていっそう信用し、江充の威勢は京師を震わせた。