資治通鑑漢紀十四 世宗孝武皇帝 征和 二年 前91年
春正月:公孫賀父子の獄死と新丞相
- 公孫賀は獄に下されて取り調べられ、父子とも獄中で死んだ。一家も族滅された。
- 涿郡太守の劉屈氂が丞相となり、澎侯に封じられた。中山靖王の子である。
夏四月・閏月:巫蠱の波及
- 大風が起こり、家屋を吹き壊し木々を折った。
- 閏月には諸邑公主・陽石公主・皇后の弟の子である長平侯伉が、巫蠱に連座して誅された。
- 武帝は甘泉に行幸した。
太子と武帝の関係
- 武帝は二十九歳でようやく戾太子を得て深く愛したが、成長すると仁恕で穏やかな性格となり、武帝は自分に似ず才気が少ないのではと不満も抱いた。
- 一方で、王夫人・李姬・李夫人らの産んだ諸皇子がおり、皇后と太子への寵愛はしだいに衰えた。
- 皇后と太子は不安を抱き、武帝もそれを察して大将軍衛青に「自分は創業未久で四夷も強く、制度を変え征伐を行わざるを得なかったが、後世までこれを続けては秦の轍を踏む。太子は重厚で静を好み、天下を安んじる守成の主として最適だ」と語り、皇后と太子を安心させるよう命じた。
- 太子はしばしば対外征伐を諫め、武帝は「自分の代で苦労し、お前には安逸を残したい」と笑って答えた。
- 武帝が行幸すると後事を太子に委ね、宮中のことは皇后に任せ、裁決のよい案件は帰還後に報告させた。武帝は多くを異議なく認め、ときに詳しく見ないこともあった。
太子派と酷吏派の対立
- 武帝の政治は法が厳しく、深刻な酷吏を多く用いたが、太子は寛厚で、しばしば減刑や再考を行った。百姓には好かれたものの、厳罰を奉ずる大臣たちは快く思わなかった。
- 皇后は、太子が長くこの姿勢を続ければ罪に問われるのではと恐れ、「軽々しく恩赦せず、上の裁可を待て」と戒めた。武帝はその話を聞き、太子を支持し、皇后を責めなかった。
- 寛厚な長者は太子に付き、酷法を好む者は太子をそしった。衛青の死後、外戚の後ろ盾がなくなると、奸臣たちは競って太子を陥れようとした。
江充と宦官たちの讒言
- 武帝はもともと諸皇子に疎く、皇后もめったに会えなかった。太子が皇后に長く拝謁すると、黄門の蘇文が「太子が宮人と戯れている」と告げた。
- 武帝は太子宮に二百人もの宮人を与えたが、太子はのちに蘇文が讒言したと知って恨んだ。
- 蘇文や小黄門の常融・王弼らはひそかに太子の過失をうかがい、見つけるたびに誇張して奏上した。皇后は激しく憤ったが、太子は「行き過ぎたことをしなければ恐れることはない。陛下は聡明で邪佞を信じない」と抑えた。
- ただ一度、武帝の体調がやや悪い時に常融が太子を呼びに行き、「太子は喜色を見せた」と先にほのめかしたことがあった。武帝は後で太子の顔に涙の跡があるのを見て事情を探り、常融を誅した。
- 皇后もまた自らをよく戒め、嫌疑を避けていたので、寵愛は薄れても礼遇は失わなかった。
巫蠱の蔓延
- 京師には方士や神巫が多く集まり、みな邪術で人を惑わしていた。後宮にも女巫が出入りし、厄払いを教え、各部屋に木人を埋めて祭ることが行われた。嫉妬や怒りから互いに密告し、「呪詛して陛下を害そうとした」と訴え合うようになった。
- 武帝は怒って後宮から大臣にまで処罰を広げ、数百人が死んだ。
- さらに武帝は昼寝の夢で無数の木人が杖を持って自分を撃とうとするのを見て、驚いてから体調を崩し、気持ちが塞ぎ込み、物忘れもひどくなった。
江充に巫蠱の獄を担当させる
- 江充は太子と衛氏に遺恨があり、武帝が老いて崩御すれば太子に誅されるのを恐れていた。そこで病気の原因は巫蠱の祟りだと説いた。
- 武帝は江充を使者として巫蠱獄を治めさせた。江充は胡巫を率いて、地を掘って偶人を探し、夜の祠祭や鬼視を口実に逮捕し、焼けた鉄の鉗や火で責めて無理やり自白させた。
- 人々はたがいに巫蠱を訴え合い、役人はすぐに大逆無道として摘発した。京師・三輔から郡国にまで広がり、前後して数万人が死んだ。
- 武帝は高齢となって身辺の者すべてを疑い、実際に呪詛があったかどうかにかかわらず、冤罪を訴える者もなくなった。
江充の宮中捜索
- 胡巫の檀何が「宮中に蠱気があり、除かなければ天子は治らない」と言ったため、武帝は江充を宮中に入れた。
- 江充は禁中の省中に至って御座を壊し、地を掘って蠱を探した。韓説・章贛・蘇文らもこれを助けた。
- 捜索は後宮の寵の薄い夫人から始まり、皇后・太子宮にまで及び、地面は縦横に掘り返され、太子も皇后も寝台を置く場所がないほどになった。
- 江充は「太子宮からは木人が特に多く出た」とし、さらに不道を記した帛書もあると称して奏上しようとした。
七月:太子、江充を殺す
- 太子は少傅石徳に相談した。石徳は、自分も連座して誅されるのを恐れ、「これまで丞相父子・二公主・衛氏もみなこの件で滅んだ。出た証拠が本物か、巫が置いたものかも分からず、弁明できない。詔と称して江充らを逮捕し、獄に入れて奸詐を究明すべきだ。しかも陛下は甘泉で病み、皇后や太子側からの問い合わせに返答がない。秦の扶蘇の例を忘れてはならない」と進言した。
- 太子は本来、甘泉へ赴いて謝罪したいと思ったが、江充が追及を急ぎ、なすすべがなく石徳の策に従った。
- 秋七月壬午、太子は客に使者を装わせて江充らを捕えさせた。韓説は詔の偽りを疑って従わず、客に殺された。
- 太子は自ら江充を斬り、「趙の賤しい者め、以前には趙王父子を乱し、今またわが父子を乱すのか」と罵った。さらに胡巫も上林で焼き殺した。
皇后・太子側の動員
- 太子は舎人の無且に節を持たせ、夜のうちに未央宮長秋門から入り、長御の倚華を通じて皇后に事情を告げた。
- 皇后は中廏の車を出して射士を運び、武庫の兵器を出し、長楽宮の衛卒を発した。
- 長安は大混乱となり、「太子が反した」という流言が広がった。
- 蘇文は逃げて甘泉へ走り、太子が無状だと訴えた。
武帝・丞相の対応
- 武帝は当初、「太子は江充らを恐れ憤って変を起こしたのだろう」と考え、使者を送って太子を召そうとした。
- しかし使者は長安に入るのを恐れて戻り、「太子の反はすでに成り、臣を斬ろうとしたので逃げ帰った」と報告した。
- 武帝は激怒した。
- 丞相劉屈氂は変を聞くと一人で逃げ、印綬も失ってしまった。長史が駅伝で急報すると、武帝は「事がこれほど騒然としているのに秘していたとは何事か。丞相には周公の風がない。周公は管蔡を誅したではないか」と責め、反者を捕斬するよう璽書を与えた。
- 牛車を楯代わりに使い、短兵での接戦を避け、城門を固く閉ざして太子方を逃がさぬよう命じた。
- 武帝自身も甘泉から建章宮へ来て、三輔近県の兵を発し、丞相に統率させた。
長安市中の戦闘
- 太子もまた使者を出し、詔を偽って長安中の都官囚徒を赦し、少傅石徳や賓客の張光らに分けて率いさせた。
- さらに、如侯に節を持たせて長水・宣曲の胡騎を発して武装集合させようとした。だが侍郎馬通が長安にいて如侯を追捕し、胡人に「その節は偽りだ、従うな」と告げ、如侯を斬って騎兵を率いて長安へ入った。
- 水軍の楫棹士も商丘成に与えられた。太子が赤節を持っていたため、朝廷は新たに黄旄を加えた節を作って区別した。
- 太子は北軍南門外で護北軍使者の任安を呼び、節を渡して兵を出すよう命じたが、任安は拝受したまま門を閉ざして動かなかった。
- 太子は兵を率いて去り、市中の民衆を駆り集めて数万人とし、長楽宮西闕の下で丞相軍と合戦した。
- 戦いは五日続き、数万人が死に、血が溝へ流れ込んだ。
- 民間では「太子が反した」と受け取られていたため、人心は太子に付かず、丞相方の兵は次第に増えた。
太子敗走、皇后自殺
- 庚寅、太子軍は敗れ、南の覆盎城門から逃亡した。
- 司直田仁は部下に城門を閉めさせたが、それは太子が父子の親であることを思い、急迫して捕えるのを避けたためで、太子はこれによって逃げることができた。
- 丞相は田仁を斬ろうとしたが、御史大夫暴勝之が「二千石の官を斬るには先に奏請すべきだ」と止めたため、いったん許した。
- だが武帝はこれを聞いて大いに怒り、暴勝之を責め、勝之は恐れて自殺した。
- 武帝は宗正劉長・執金吾劉敢に命じて皇后の璽綬を収めさせ、衛皇后は自殺した。
- 任安については、老吏として形勢を見て勝者につこうとした二心ありとして、田仁とともに腰斬に処した。
論功行賞と連座
- 馬通は如侯を捕え、長安の男子景建は馬通に従って石徳を捕え、商丘成は力戦して張光を捕えた。
- その功により、馬通は重合侯、景建は徳侯、商丘成は秺侯に封じられた。
- 太子の賓客で、ふだん宮門に出入りしていた者はみな誅され、太子に従って兵を起こした者も反法によって族滅された。
- ただし、役人や兵卒のうち、太子に脅されて従った者は敦煌に流された。
- この事件をきっかけに、長安の諸城門には常駐兵が置かれるようになった。
壷関三老の上書
- 武帝は激怒し、群臣はどう収めるべきか分からなかった。
- その中で壷関三老の茂が上書し、父は天、母は地、子は万物にたとえられること、太子は漢の嫡嗣で祖宗の重みを担う宗子であることを説いた。
- 江充はもとは布衣の一小臣にすぎず、至尊の命を借りて皇太子を追い詰め、奸邪が錯綜したため親子の道が塞がれたのであって、太子は無実の憤りから江充を殺し、父の兵を借りて身の危難を免れようとしただけで、反逆の心はないと訴えた。
- また『詩経』の「青蝇」の詩を引き、讒言を信じてはならないと諫め、武帝が趙太子の時と同じく江充の讒を再び信じていると痛言した。
- 武帝はこれを読んで深く感じ入り、心は開かれたが、なお公然と赦すところまでは踏み切れなかった。
八月:太子の最期
- 太子は東へ逃れ、湖県の泉鳩里に潜んだ。主人の家は貧しく、草履を売って太子を養った。
- しかし湖に住む旧知の富者に使いをやったことで露見し、八月辛亥、役人が包囲した。
- 太子は逃れられないと判断し、室内に入って戸にささえをして自ら首をくくった。
- 山陽の張富昌が卒として戸を踏み破り、新安令史の李寿が駆け寄って太子を抱き下ろしたが、すでに救えなかった。主人も格闘して死に、皇孫二人もあわせて殺された。
- 武帝は太子を失ったことを悲しみ、李寿を邘侯、張富昌を題侯に封じた。
司馬光の評:博望苑と太子教育
- 武帝は太子のために博望苑を設け、賓客との自由な交わりを許し、その好みに従わせたため、異端を説く者が多く集まった。
- 司馬光は、古の明王は太子の教育にあたり、方正敦良の士を選んで保傅・師友とし、左右前後を正人で固めたのに、それでも逸脱する例があったと述べる。
- まして好みに任せて賓客を交わらせれば、正直な士は近づきにくく、へつらう者は容易に集まる。太子がついに身を保てなかったのも当然だと批判する。
秋九月:余波
- 癸亥、地震があった。
- 商丘成が御史大夫となった。
- 趙敬粛王の末子の偃が平干王に立てられた。
- 匈奴が上谷・五原に侵入し、官民を殺掠した。