資治通鑑漢紀十三 世宗孝武皇帝 天漢 二年 前99年
春・夏 東海・回中行幸と貳師将軍の再出兵
- 春、武帝は東海へ行幸し、そののち回中にも赴いた。
- 夏五月、貳師将軍李広利に三万騎を授け、酒泉から出て天山方面の右賢王を撃たせた。
- 李広利は一万余級を挙げて帰還したが、その帰途に匈奴の大軍に包囲された。
- 漢軍は数日食糧が乏しく、死傷が多かったが、仮司馬の趙充国が壮士百余人を率いて包囲を突破し、陣中へ切り込んで道を開いた。李広利軍はこれに従って辛うじて脱出した。
- 損耗はきわめて大きく、兵の六、七割を失ったが、趙充国は二十余創を負ってなお生き延びたため、武帝は行在所に召して自ら傷を見舞い、中郎に任じた。
公孫敖・路博德の不首尾
- 漢は再び因杅将軍公孫敖を西河から、強弩都尉路博徳を涿邪山方面へ進ませたが、目立つ戦果は得られなかった。
李陵の出征
- 李広の孫の李陵は侍中として騎射に優れ、兵を愛して士に下ることで知られ、武帝も祖父李広の風があると見て騎都尉に任じていた。
- 丹陽・楚出身の五千人を率いて酒泉・張掖で弓射を教練させていたが、貳師将軍の匈奴征討に際し、武帝は当初、李陵に輜重軍の護衛を命じようとした。
- 李陵はこれを辞し、「自分の配下はみな荆楚の勇士であり、騎兵なしでも歩兵五千で単于庭近くまで入り込み、単于軍を引きつけて貳師軍の負担を分けられる」と願い出た。
- 武帝は「将が互いに属したがらないのか」と皮肉りつつも、その胆力を壮として許可し、路博徳に半途でこれを迎えさせようとした。
- ところが路博徳は李陵の後塵を拝するのを恥じ、秋は匈奴の馬が肥えて戦いに不利だとして出兵延期を願った。武帝は、李陵が後悔して路博徳にその奏上をさせたのではないかと疑り、怒って路博徳には別途西河へ出兵を命じ、李陵には単独出撃を命じた。
九月以後 李陵の孤軍奮戦
- 李陵は九月に遮虜障を出て、東浚稽山南・龍勒水上流まで進み、敵情を探りつつ地形図を送り返した。報告した騎士陳歩楽は、李陵が士卒に死力を尽くさせる統率ぶりを称えたため、武帝は大いに喜んで彼を郎にした。
- その後、李陵軍は浚稽山で単于本軍三万騎と遭遇した。李陵は両山の間に車営を布き、前列に戟盾、後列に弓弩を配して迎撃した。
- 匈奴が兵少と見て突進すると、千張の弩を一斉に放って多数を倒し、さらに追撃して数千を斬った。単于は驚き、周辺諸地からさらに八万余騎を集めて攻めさせた。
- 李陵は南へ退きながら戦い、連戦のなかで三創の者は輦に載せ、二創の者は車を扶け、一創の者はなお兵を執って戦わせた。
- 大沢の葭葦帯では匈奴が風上から火を放ったが、李陵も先に葭葦を焼いて延焼を防ぎ、さらに南山の単于子の軍を破って数千を殺し、連弩で単于自身をも狙って退かせた。
- 捕虜の証言では、単于は「これは漢の精兵で、軽々には破れず、日夜わが軍を南へ引き寄せるのは、塞近くの伏兵を疑わせる」と恐れていた。
- しかし匈奴の諸王・君長は、「単于自ら数万騎で漢兵数千を滅ぼせないようでは、今後辺臣を使えず、漢に軽んじられる」と主張し、退こうとする単于を踏みとどまらせた。
管敢の降伏と全滅
- 李陵軍は一日に数十度も戦い、なお匈奴を多く殺傷したが、軍候の管敢が校尉に辱められて匈奴へ降り、漢軍の実情をすべて告げた。
- すなわち、後詰めはなく、矢も尽きかけ、前衛で特に強いのは李陵麾下と成安侯韓延年の各八百人で、黄白の旗を目標に精騎で射れば崩せる、という情報であった。
- 単于は大いに喜び、匈奴騎は四方から激しく迫って「李陵・韓延年、早く降れ」と叫んだ。
- 李陵軍は谷間に押し込められ、山上から矢の雨を浴び、鞮汗山に至るまでに一日五十万本もの矢を受け、ついに弾薬が尽きた。
- 車を棄てて徒歩となり、車の輻を斬って武器にし、狭谷で尺刀を持って戦ったが、匈奴は要所から石を落として進路を断った。
- 夜になり、李陵は「一身で単于を討つ」と言って軽装で営を出たが、果たせず戻り、「兵は敗れ、死ぬのみだ」と嘆いた。
- 旗幟と珍宝を埋め、士卒にわずかな乾飯と氷を持たせて脱出を図ったが、鼓も鳴らず、韓延年は戦死、李陵は「もはや陛下に顔向けできぬ」と言ってついに降伏した。
- 兵は四散し、塞へ帰り着けたのは四百余人にすぎなかった。
李陵降伏後の朝廷
- 李陵敗北の報が届くと、武帝は当初、死戦したものと思っていたが、降伏を聞いて激怒し、陳歩楽を責め、陳歩楽は自殺した。
- 群臣はみな李陵を罪したが、司馬遷だけは、李陵は親に孝、士卒に信義があり、もとより国士の風があること、歩卒五千で深入りし、数万の敵を抑え、千里にわたって転戦し、古の名将に劣らぬ戦いをしたことを力説した。
- そして生き残ったのも、将来功を立てて漢に報いようとしたからかもしれないと弁護した。
- 武帝はこれを、貳師将軍をそしり李陵をかばう虚言だとして怒り、司馬遷に腐刑を下した。
- のちに武帝は、李陵を救う援軍がなかったことを悔い、出塞時に路博徳への迎撃命令を適切に運用しなかったために老将に詐計の余地を与えたのだと振り返った。
- そして脱出した李陵軍の残兵には使者を遣わして労い、賞賜を与えた。
盗賊の激増と沈命法
- 武帝は法令で臣下を厳しく統御し、酷吏を好んで用いたため、郡国の二千石もまたおおむね苛酷になり、吏民はますます法を軽んじて犯法した。
- 東方では盗賊が激増し、大きいものは数千人で城邑を襲い、庫兵を奪い、囚人を放ち、太守・都尉を辱め、二千石を殺すまでに至った。小規模の掠奪は数え切れなかった。
- 御史中丞や丞相長史の督察では禁じ切れず、ついに范昆・張徳らに繡衣と節・虎符を持たせて兵を発し、軍興の法で討伐させた。大郡では斬首一万余級に達し、盗賊に食糧を通じた者も連坐で大量に誅された。
- それでも残党は再び山川により集まり、根絶できなかったので、武帝は沈命法を作った。盗賊が起きても発覚させず、あるいは捕えても規定人数に満たないと、二千石以下の担当官はみな死罪とする法である。
- そのため末端官吏は処罰を恐れて盗賊の発生自体を報告せず、上級官庁もまた連座を恐れて隠蔽させたので、かえって盗賊は増え、上下とも文辞で法網を逃れる風が強まった。
暴勝之と雋不疑
- この時、直指使者の暴勝之は二千石以下を多数誅殺して威を州郡に震わせた。
- 渤海に至ると、郡人の雋不疑に賢名があると聞き、面会を求めた。雋不疑は威厳ある容貌と立派な衣冠で現れ、勝之は履も整えぬまま迎えた。
- 雋不疑は「官吏は剛に過ぎれば折れ、柔に過ぎれば廃れる。威に恩を合わせてこそ功を立て名を揚げられる」と諫め、勝之は深くこれを受け入れた。
- 帰京後、勝之は雋不疑を推挙し、武帝はこれを召して青州刺史に任じた。
済南王賀の失意
- 済南王賀も繡衣御史となって魏郡の群盗を追捕したが、多くを赦免したため、奉使に適さぬとして免官された。
- それでも彼は「千人を活かせば子孫に封があるという。自分は一万余人を生かした。後世にはきっと栄える者が出るだろう」と言った。司馬光はこれを、のちに王氏が外戚として漢を簒う伏線とみる。
年末 楼蘭兵と車師
- この年、匈奴から降った介和王成娩を開陵侯に封じ、楼蘭兵を率いさせて車師を撃たせた。
- しかし匈奴は右賢王に数万騎を授けて救援に向かわせ、漢軍は不利となって撤退した。