資治通鑑漢紀十三 世宗孝武皇帝 元封 三年 前108年

冬十二月 趙破奴の車師征討

  • 冬十二月、武帝は趙破奴を派遣して車師を討たせた。
  • 趙破奴は軽騎七百余りを率いて先行し、まず楼蘭王を捕え、ついで車師を破った。
  • これにより西域諸国に対して漢軍の威勢を示し、烏孫・大宛などへの圧力ともした。

春正月 論功行賞と西方防衛

  • 春正月、趙破奴を浞野侯に封じ、王恢も楼蘭攻撃の補佐の功で浩侯に封じた。
  • さらに酒泉から玉門まで亭や障塞を整備し、西域への通路の防備を進めた。

角抵・魚龍曼延の戯

  • このころ、角抵の戯や魚龍曼延などの大規模な雑技・幻術的演目が作られた。
  • 宮廷の娯楽・儀礼の華美さは、外来の使節に漢の富強を示す役割も持っていた。

朝鮮遠征の難航

  • 漢軍が朝鮮に入ると、右渠は険阻に拠って抵抗した。楼船将軍楊僕は斉兵七千で先着したが、兵少を見抜かれて王險城外で撃たれ、大きく崩れた。
  • 左将軍荀彘も浿水西岸で戦ったが、容易には破れず、武帝は両将に戦果が上がらないのを憂えた。
  • 使者の衛山を派遣して右渠に降伏を勧めると、右渠は謝罪して太子を入朝させる意向を示し、馬五千匹と兵糧を献じようとした。
  • しかし、太子一行が兵を携えて浿水を渡ろうとしたため、漢側は変事を疑い、朝鮮側もまた欺殺を恐れて結局引き返した。武帝は衛山を誅した。

両将の不和と公孫遂の失策

  • その後、荀彘と楊僕はともに王險城を囲んだが、兵の性格も方針も違い、うまく協同できなかった。
  • 楊僕は和議を重んじ、荀彘は急戦を望み、朝鮮の大臣たちは密かに楊僕と通じて降ろうとしたため、両将の対立はいっそう深まった。
  • 武帝は済南太守の公孫遂を派遣し、現地で裁断させた。公孫遂は荀彘の疑いを支持し、符節をもって楊僕を営中に呼び出して拘束し、その軍も荀彘に併合させた。
  • しかし武帝はこれを越権と見て公孫遂を誅した。

夏 右渠の死と朝鮮四郡の設置

  • 荀彘は二軍を合わせると攻勢を強めた。朝鮮では相の路人・韓陰、尼谿相の参、将軍王唊らが協議し、もはや抗戦は不利だと判断した。
  • 韓陰・王唊・路人らは逃れて漢に降り、路人は途中で死んだ。夏、尼谿相の参は人をやって右渠を殺し、降伏した。
  • なお王險城内では成已がなお抗戦したが、右渠の子の長、路人の子の最らが民を説き、成已を誅してようやく平定された。
  • 漢はここに楽浪・臨屯・玄莵・真番の四郡を置いた。
  • 功臣として参を澅清侯、韓陰を荻苴侯、王唊を平州侯、長を幾侯、最を涅陽侯に封じた。
  • 左将軍荀彘はのちに争功と不和の罪で棄市、楼船将軍楊僕も独断専行と敗北の責任で庶人に落とされた。

朝鮮旧俗への評

  • 班固は、朝鮮は箕子の教化を受けて礼義や農桑・織作が行き届き、禁条も整っていたと評する。
  • 殺人・傷害・盗みへの処罰が明確で、男女関係も正しく、戸を閉ざさぬほど治安が良かったが、後に遼東の官吏や商人が風俗を乱し、禁令は六十余条に増えたという。
  • それでもなお、仁賢の教化の力をたたえ、東夷が柔順であることを論じている。

秋七月 膠西于王端の死と武都氐の反乱

  • 秋七月、膠西于王端が薨じた。
  • また武都の氐が反乱し、その一部は酒泉へ分徙させられた。