資治通鑑漢紀十三 世宗孝武皇帝 太初 元年 前104年

冬十月~十二月 泰山・明堂・柏梁台火災

  • 冬十月、武帝は泰山に行幸した。
  • 十一月甲子朔旦冬至、明堂で上帝を祀り、さらに海辺まで出て、方士に命じて入海・神仙探索を続けさせたが、確かな徴験は得られなかった。
  • 乙酉、柏梁台が焼失した。
  • 十二月甲午朔、武帝は自ら高里で禅を行い、后土を祀り、渤海に臨んで蓬莱など仙庭への到達を願った。

春 建章宮の造営

  • 春、柏梁台の火災を受けて、諸侯の朝会と郡国計簿の受理を甘泉で行い、そこに諸侯邸を設けた。
  • 越人の勇之が「越の俗では火災の後は、前より大きく建てて禍を圧する」と言ったため、武帝は建章宮の造営を始めた。
  • 宮は千門万戸を誇る巨大なもので、東に鳳闕、西に唐中・虎圏、北に太液池と漸台を築き、池中には蓬莱・方丈・瀛洲・壺梁を象った神山や亀魚の石造物を置いた。南には玉堂・璧門・大鳥像を置き、神明台と井幹楼も建て、輦道で互いに連ねた。

夏五月 太初暦の制定

  • 公孫卿・壺遂・司馬遷らは、歴法の紀綱が乱れ廃れているとして改暦を建議した。
  • 武帝は児寛と博士らに議論させ、夏正を用いるべきだとの結論を得た。
  • 夏五月、公孫卿・壺遂・司馬遷らに命じて太初暦を作らせ、正月を歳首とし、色は黄を尊び、数は五を用いることとした。
  • さらに官名を整え、音律・宗廟・百官の儀を定めて後世の常典にしようとした。

匈奴内応策と受降城

  • 匈奴の児単于は好戦で、国内は不安、災害で家畜も多く死んでいた。
  • 左大都尉が密かに漢へ使者を送り、「漢軍が遠くまで迎えに来るなら単于を殺して降る」と告げた。
  • 武帝は公孫敖を因杅将軍として塞外に受降城を築かせ、その申し出に備えた。

秋八月 大宛遠征の発端

  • 秋八月、武帝は安定に行幸した。
  • それまで西域から戻った漢使は、大宛の貳師城に善馬がいるのに王が惜しんで漢に与えないと報告していた。そこで車令らに千金と金馬を持たせて求めさせた。
  • しかし大宛王は、漢は遠く、途中は鹽沢・胡寇・水草不足・食糧難があり、大軍は到底来られないと見て、善馬を与えることを拒んだ。
  • 漢使は怒って暴言を吐き、金馬を打ち壊して去ったため、大宛側は東辺の郁成王に命じてこれを襲わせ、漢使を殺して財物を奪った。
  • 武帝は激怒し、かつて大宛へ行った姚定漢らが「兵は弱く、漢兵数千で十分」と強く言い、さらに李夫人の一族を侯にしたい思惑もあって、李夫人の兄・李広利を貳師将軍に任じた。
  • 属国騎六千と郡国の悪少年数万人を発し、貳師城に至って善馬を奪うことを目標に大宛へ出征させた。趙始成を軍正、王恢を道案内とし、李哆を校尉として軍事を総括させた。
  • 司馬光はここで、武帝が功なく侯にしたくないために李広利へ遠征を任せたのは、封侯の規矩には気を配っても、将帥の任命という国家の大事には見識を欠いたものだと厳しく論じている。

年末の処断と蝗害

  • 中尉の王温舒は奸利の罪で族誅相当となり自殺した。弟たちと婚家も別件で同時に族誅され、徐自為は「三族どころか五族に及んだ」と嘆いた。
  • 関東では蝗害が大発生し、西は敦煌にまで飛来した。