資治通鑑漢紀十三 世宗孝武皇帝 太初 二年 前103年
春正月・閏月 石慶の死と公孫賀の相位
- 春正月、牧丘恬侯の石慶が薨じた。
- 閏月丁丑、太僕の公孫賀が丞相に任じられ、葛繹侯に封じられた。
- ただし当時、朝廷の責任追及は厳しく、公孫弘以後の丞相が相次いで事に坐して死んでいたため、公孫賀は印綬を受けようとせず、涙を流して辞退した。やむなく拝命して退出すると、「これで私は危うい」と漏らした。
三月・夏五月 河東祭祀と軍馬徴発
- 三月、武帝は河東に行幸して后土を祀った。
- 夏五月、吏民の馬を籍に載せ、車騎用の軍馬にあてた。
秋 第一次大宛遠征の失敗
- 貳師将軍李広利が西へ進むと、途中の小国はみな城を閉ざして食糧を出さず、攻めても落とせず、落とせた所から糧を取るしかなかった。
- 郁成に着くころには兵は数千に減り、飢労しきっていた。郁成を攻めると大敗し、多くの死傷者を出した。
- 李広利らは、郁成すら落とせないのに王都へは到底進めないと判断して撤退し、敦煌に戻ったときには兵は十分の一か二ほどしか残っていなかった。
- 使者を送り、「遠路で食糧が足りず、兵は戦いより飢えに苦しんだ。いったん軍を休め、兵を増して再度向かいたい」と上書した。
- 武帝は怒り、玉門関で帰還兵を遮って「軍中で都に入る者は斬る」と命じたため、李広利は敦煌に留まるしかなかった。
趙破奴の敗北
- 武帝はなお受降城が匈奴本拠から遠すぎると考え、趙破奴を浚稽将軍として二万余騎で朔方から西北へ出し、浚稽山まで進ませた。
- しかし内応を約していた左大都尉の計画は発覚して処刑され、匈奴は左方の兵を総動員して趙破奴を迎え撃った。
- 趙破奴は帰途、受降城まで四百里の地点で八万騎に包囲され、夜に水を求めて出たところを捕えられた。
- 将を失った漢軍は意気を失い、ついに全軍が匈奴に没した。児単于は大いに喜び、その勢いで受降城も攻めたが落とせず、辺境を荒らして去った。
冬十二月 児寛の死