資治通鑑漢紀十二 世宗孝武皇帝 元鼎 元年 前116年

夏五月 改元と大赦

  • 宝鼎出現にちなむ改元として、この年を元鼎元年とした。
  • 夏五月、天下に大赦が出された。

済東王彭離の廃位

  • 済東王彭離は凶暴で、夕暮れになると奴や無頼の少年たち数十人を率いて略奪・殺人を行い、財物を奪うのを楽しみにしていた。
  • 発覚しただけでも百人以上を殺しており、その罪で廃され、上庸へ移された。

冬十一月 張湯の滅亡

  • 御史中丞の李文と張湯は不仲であった。
  • 張湯に近い魯謁居がひそかに李文の不正を告発し、事件は張湯の手に渡って李文は処刑された。
  • 武帝が告発の出所を問うと、張湯は知らぬふりをし、むしろ李文が人に恨まれていたからだろうと装った。
  • さらに趙王が「大臣が官吏の足をもんでいるのは怪しい」と上書して張湯を告発し、導官に繋がれた謁居の弟も張湯への怨みから密告した。
  • 丞相荘青翟側近の朱買臣・王朝・辺通らも、張湯に見下されていた恨みから商人田信との癒着を暴き立てた。
  • 武帝は、張湯が自分を欺き、表では驚いたふりをしながら裏で策動していたと判断し、趙禹に厳しく詰問させた。
  • 張湯は自筆の謝罪文で三長史の讒言を訴えたのち、自殺した。
  • 張湯の家産はわずか五百金ほどで、母は「天子の大臣が汚名を着せられて死んだのに厚葬はできぬ」として、牛車に棺だけを載せて葬らせた。
  • 武帝はこれを聞いて三長史を追及し、ことごとく誅殺した。

十二月 荘青翟も自殺

  • 丞相の荘青翟も獄に下され、自殺した。

宮室造営の拡大

  • 柏梁台が造られ、また高さ二十丈の承露盤も設けられた。
  • 銅製の仙人掌で露を受け、それに玉の粉を和して飲めば長生きできるとされた。
  • これ以後、宮室の造営はいっそう盛んになった。

二月・三月 人事異動と災害

  • 太子太傅の趙周が丞相に、石慶が御史大夫に任じられた。
  • 大雪が降り、夏には大洪水が起こり、函谷関の東では飢えて死ぬ者が数千人に及んだ。

財政改革 均輸と鋳銭統制

  • この年、大農令に孔僅、大農中丞に桑弘羊が起用された。
  • 郡国に均輸官が置かれ、各地の産物をその土地の相場で官が受け取り、別の場所で売って利を得る体制が整えられた。
  • 白金はしだいに信用を失い、ついには廃止された。
  • そのうえで郡国での鋳銭を禁じ、上林三官だけに鋳造を許し、三官銭以外の流通を認めなかった。
  • 私鋳は大きく減り、費用倒れになりやすくなったため、よほどの熟練工か大悪党だけが密かに続ける状況となった。

張騫の建議と西域通交の開始

  • 渾邪王の降伏後、漢軍が匈奴を漠北へ追いやったことで、塩沢以東の道が開け、西域へ通じる可能性が広がった。
  • 張騫は、烏孫王昆莫はもとは匈奴の臣下だったが勢力を増して服属を嫌っており、いま匈奴が漢に苦しめられている好機に厚い贈物で誘い、故渾邪王の地へ東遷させれば、漢との兄弟盟約が成立し、匈奴の右腕を断てると進言した。
  • さらに烏孫と結べば、その西の大夏など諸国も招き寄せて外臣化できると説いた。
  • 武帝はこれを採用し、張騫を中郎将として三百人と多数の牛羊・金帛を与え、多くの副使を従えて派遣した。道中で便宜があれば周辺国にも使者を出すよう命じた。
  • 張騫は烏孫に至ったが、昆莫の礼遇は傲慢で、漢公主を妻に迎えれば兄弟盟約を結べると説いても動かなかった。匈奴との関係が長く、近くて強大だったためであり、重臣たちも移住を望まなかった。
  • 張騫は副使を大宛・康居・大月氏・大夏・安息・身毒・于闐などへ分遣し、烏孫は通訳と案内をつけて張騫を送り返し、あわせて数十人を漢へ派遣して国力を探らせた。
  • 張騫が帰国して大行に任じられ、その翌年以降、派遣した使者の多くも各国人を伴って帰ってきた。
  • こうして西域と漢との本格的な往来が始まった。

西域の地理と匈奴支配

  • 西域には三十六国があり、南北に大山脈、中央に大河が流れ、東は玉門関・陽関に接し、西は葱嶺に限られていた。
  • 南道は鄯善を経て南山の北麓沿いに莎車へ、北道は車師前王庭から北山沿いに疏勒へ通じ、さらに葱嶺を越えて大月氏・安息・大宛・康居などに至った。
  • これらの国々は従来みな匈奴に属し、匈奴は西辺に僮僕都尉を置いて焉耆・危須・尉黎のあたりに常駐させ、諸国から租税を取り立てていた。

酒泉郡の設置

  • 烏孫が東遷を拒んだため、漢は渾邪王旧地に酒泉郡を置き、移民を送って充実させた。
  • のちには武威郡も分置し、匈奴と羌との交通路を断つ意図を強めた。

天馬と対外使節の増加

  • 武帝は大宛の汗血馬を得て愛し、「天馬」と名づけた。
  • 外国へ向かう使者は道に絶えず、大規模なものは数百人、小規模なものでも百人余りで、張騫派遣時の方式がおおむね模範とされた。
  • その後は慣れもあってやや縮小したが、毎年五、六組から十組以上の使節が出され、遠国なら八、九年、近国でも数年を要して帰った。