資治通鑑漢紀十二 世宗孝武皇帝 元鼎 三年 前114年

冬十月 雍での祭祀と后土祠の議

  • 武帝は雍へ行幸して五畤を祀った。
  • その際、「上帝を親しく郊祀するのに后土を祀らないのは礼の対称を欠く」として、沢中の円丘に后土祠を立てるよう有司に議論させた。

河東巡幸と守の自殺

  • 武帝は夏陽から東へ向かい、汾陰に行幸した。
  • 河東太守は急な行幸に備えができず、自殺した。

十一月甲子 后土祠の建立

  • 汾陰の脽上に后土祠が立てられた。
  • 武帝は上帝を祀るのと同じ礼で自ら望拝し、祭りを終えると滎陽を経て洛陽に至った。

周後の封建

  • 周王室の後裔とされた姬嘉を周子南君に封じた。

春二月 中山靖王の死

  • 中山靖王劉勝が死去した。

欒大の登場

  • 楽成侯丁義が方士の欒大を推挙した。
  • 武帝は文成将軍を以前に誅したことを悔いていたため、欒大を得て大いに喜んだ。
  • 欒大は膠東康王に仕えていた人物で、見た目もよく、話術に長け、大胆な大言を平然と口にした。
  • 彼は、海中で安期生や羨門ら仙人に会ったこと、黄金の錬成や黄河の治水、不死の薬や仙人招来が可能だと語ったうえで、文成の末路を見た方士たちが黙っているだけだと主張した。
  • 武帝が試しに小術を行わせると、旗がひとりでに打ち合うように見える現象があったため信を深めた。
  • ちょうど黄河決壊と黄金錬成の不成功を憂えていた武帝は、欒大を五利将軍・天士将軍・地士将軍・大通将軍に任じた。

夏四月乙巳 欒大の破格の厚遇

  • 欒大は楽通侯に封じられ、二千戸を食み、豪奢な邸宅・奴婢・車馬・器物など莫大な賜与を受けた。
  • さらに衛長公主を娶らせ、黄金十万斤を与えた。
  • 武帝自らその邸宅を訪れ、使者が絶えず慰問し、太主・将相以下も宴を設けて贈物を競った。
  • また玉印に「天道将軍」と刻ませ、使者が羽衣を着て白茅の上に立ち、欒大も同様に立って印を受けるという神秘的な儀礼まで行われた。
  • わずか数か月で欒大は六つの印綬を帯び、天下に権勢を震わせたため、燕・斉地方の方士たちは皆、秘法を持つと称して売り込み始めた。

六月 宝鼎の出現

  • 汾陰の巫者・錦が、后土祠の営域のそばで大鼎を得た。
  • 河東太守の報告を受け、武帝は不正がないことを確認させたうえで、礼をもって甘泉へ迎え、宗廟と上帝に薦めたのち、甘泉宮に収めた。
  • 群臣はこぞって賀表を奉った。

秋 泗水王の封建

  • 常山憲王の子・商が泗水王に立てられた。

趙禹・尹斉・児寛

  • かつて周亜夫は、趙禹について「法律に明るく有能だが、法の運用が深すぎて大府には向かない」と評していた。
  • 趙禹が少府となると、九卿の中でもとくに酷急と見なされた。
  • 中尉の尹斉も断罪をもって名を成していたが、統治は一段と民を疲弊させ、この年ついに任に耐えず罪を得た。
  • 武帝は王温舒を再び中尉、趙禹を廷尉に起用した。
  • 当時は酷吏的な統治が流行したが、左内史の児寛だけは農業奨励・刑罰緩和・訴訟の情状酌量に努め、仁厚な人材を選び、民情を汲むことに意を用いた。
  • 租税徴収でも繁閑に応じて民に猶予を与えたため、平時には納め切れない租も、軍事徴発で解任の危機になると、民が失いたくないと争って運び込み、かえって成績最上となった。
  • 武帝はこれを見て児寛をいっそう高く評価した。

南越の王位継承と漢の介入

  • 南越文王の子・嬰斉は、若い頃に長安で宿衛し、邯鄲の樛氏の女を娶って子の興をもうけていた。
  • 文王が死ぬと嬰斉が立ち、先代の僭号である「武帝」の璽をしまい込み、樛氏を后、興を嗣子とすることを漢に願った。
  • 漢はたびたび使者を送り入朝を勧めたが、嬰斉は生殺与奪をほしいままにする気風を捨てられず、内諸侯並みの拘束を恐れて病と称し、ついに朝見しなかった。
  • 嬰斉の死後、明王と諡され、太子の興が立ち、その母が太后となった。
  • 太后はもともと覇陵の人・安国少季と親しい関係にあり、この年、武帝は安国少季と諫大夫終軍らを派遣し、南越に内属を勧めさせた。勇士の魏臣らも派遣され、衛尉の路博徳が桂陽に兵を屯して後詰となった。
  • 南越王は年少で、太后は漢人であり、しかも安国少季と再び私通したため、国内では太后への反発が強まった。
  • それでも太后は漢の威を借りて内属を進め、三年に一度の朝覲、辺関の撤廃を願い出た。
  • 武帝はこれを許し、丞相呂嘉には銀印を、内史・中尉・太傅には官印を与え、そのほかの官は自置を認めた。黥・劓など旧刑を除いて漢法に従わせ、使者は現地に留まって鎮撫にあたった。

泰一祠建設の議

  • 武帝が雍に行幸して郊祀を考えていたところ、「五帝は泰一の補佐神であり、泰一を立てて天子が親祭すべきだ」との議論が出た。
  • 武帝は迷っていたが、斉人公孫卿が「今年の宝鼎出現と、冬至が朔旦辛巳に当たることは黄帝の時と一致する」と、古い札書を根拠に説いた。
  • さらに申公の伝えとして、「漢の聖者は高祖の孫または曾孫の代に現れ、宝鼎が出て神と通じる」と述べ、黄帝が首山の銅で鼎を鋳、龍に乗って昇天した故事を語った。
  • 武帝はこれに大いに感じ入り、「もし黄帝のように昇天できるなら妻子など履物を脱ぐほどに惜しまぬ」とまで言った。
  • 公孫卿は郎に任じられ、東方の太室山へ神を候う役目を命じられた。