資治通鑑漢紀十二 世宗孝武皇帝 元鼎 四年 前113年

冬十月 西方巡幸

  • 武帝は雍で五畤を祀り、隴を越えて西の崆峒山へ登った。
  • 隴西太守は急な通過に備えられず、随行者に食を供せなかったことを恐れて自殺した。
  • 武帝はさらに蕭関を北に出て、数万騎を率い新秦中で狩猟しつつ辺兵を整え、その後帰還した。
  • 新秦中には長く亭や徼が整わず、これを理由に北地太守以下が処刑された。

甘泉での泰一祠

  • 武帝は再び甘泉へ行き、泰一祠を立てた。
  • 祭具は雍の一畤に準じつつ、さらに加えられ、五帝の壇がその下を取り囲み、四方の地には群神や北斗のための供えが並べられた。

十一月辛巳朔冬至 泰一親祀

  • 夜明け前、武帝は初めて泰一を郊祀し、あわせて朝日・夕月の礼も行った。
  • 祭壇には火が列し、周囲に炊事の設備も整えられた。
  • 祭の場に光が現れた、昼には黄色い気が天に昇ったなどと有司は報告した。
  • 太史令の司馬談や祠官寛舒らは、三年ごとに天子が一度泰一を郊祀すべきだと請い、詔で認められた。

南越 呂嘉の反発

  • 南越では王と太后が入朝の準備を進め、多くの財貨を整えた。
  • しかし丞相呂嘉は高齢ながら三代の王に仕え、宗族・婚姻関係も広く、王よりもなお国内で重んじられていた。
  • 王が漢へ上書するたびに呂嘉は何度も諫めて止め、ついに病と称して漢使との面会も避けるようになった。
  • 漢使も呂嘉を警戒しつつ、まだ誅するには至らなかった。
  • 王太后は先手を打って漢使の権威を利用し、呂嘉らを討とうと考え、酒宴を開いて使者と南越の大臣を同席させた。
  • 酒が進むと太后は呂嘉に向かい、「内属は国に利益があるのに、なぜ相君はこれを不便とするのか」とあからさまに非難して、使者に決断を促した。
  • しかし使者はためらい、呂嘉は異変を察して退出した。太后は怒って矛で刺そうとしたが、王が止めた。
  • 呂嘉は弟の兵を率いて館に戻り、病を口実に王にも使者にも会わず、密かに反乱を計った。
  • 王はもともと呂嘉を殺す気が弱く、数か月のあいだ局面は動かなかった。

漢朝の対応と韓千秋の派遣

  • 武帝は、王と太后はすでに漢に心を寄せており、乱の元は呂嘉だけだと考え、大軍派遣には慎重だった。
  • 荘参に二千人を率いて行かせようとしたが、荘参は「友好使節なら少人数で足りるが、武力行使なら二千では足りない」として辞退した。
  • そこで元済北相の韓千秋が「勇士三百人もあれば呂嘉を斬って報告できる」と請願し、武帝は韓千秋と王太后の弟樛楽に二千人を与えて派遣した。

南越の反乱と王・太后の殺害

  • 呂嘉はついに国中に布告し、王が年少であること、太后が漢人で安国少季と乱れていること、祖先の宝器を天子へ献じ、従者を長安で奴婢として売って目先の利益だけを求め、趙氏の社稷を顧みないことを非難した。
  • そのうえで弟と兵を率い、王・王太后・漢使者を殺害した。
  • 蒼梧の秦王や郡県にも連絡し、明王の長子である建徳を擁立した。
  • 韓千秋の軍は越境後に小邑をいくつか破ったが、南越側はわざと道を開いて深入りさせ、番禺まで四十里の地点で包囲して全滅させた。
  • さらに漢使の節を箱に入れて塞上に送り返し、体裁だけ整えた謝罪文を添えたうえで、各地の要害を固めた。

春三月壬午 漢の対南越戦争決定

  • 武帝は南越の反乱を聞き、韓千秋は功こそなかったが軍の先鋒を務めたとして、その子延年を成安侯に封じた。
  • また、真っ先に漢への帰属を願った王太后の姉にちなみ、その子広徳を龍亢侯に封じた。

夏四月 大赦と日食

  • 天下に大赦が出された。
  • 丁丑晦に日食が起きた。

秋 南越討伐軍の派遣

  • 路博徳が伏波将軍として桂陽から湟水を下り、楊僕が楼船将軍として豫章から湞水を下り、帰義越侯厳が戈船将軍として零陵から離水を下り、甲が下瀬将軍として蒼梧方面から進軍した。
  • いずれも罪人や江淮以南の兵を合わせ、楼船十万人規模の大軍で、番禺で合流する計画だった。
  • 越馳義侯遺も、巴蜀の罪人や夜郎兵を率いて牂柯江から下った。

卜式の請願

  • 斉相の卜式は上書し、自分と子を含む斉の船乗りたちを南越討伐に参加させて死地に赴かせたいと願った。
  • 武帝は詔でこれを称賛し、関内侯の爵位、黄金六十斤、田十頃を賜り、天下に布告した。
  • しかし列侯を含め、これに続いて自ら出征を願い出る者はほとんどいなかった。

九月 酎金事件と趙周の死

  • 宗廟の酎祭にあたり、列侯が助祭の金を献じたが、少府が調べると、目方の軽いものや品質の悪いものが多かった。
  • 武帝はこれを不敬として摘発し、百六人から爵位を奪った。
  • 丞相趙周もその不正を知っていた罪で獄に下され、自殺した。
  • 御史大夫石慶が丞相となり、牧丘侯に封じられた。
  • ただし当時は桑弘羊らが財利を取り、王温舒らが峻法を行い、児寛らが文治を唱えるなど政策の主導権が各方面に分かれ、石慶はただ謹直であるにとどまった。

欒大の失脚

  • 五利将軍となった欒大は、東海に入って師を求めると称したが、実際には海に入らず泰山でごまかしていた。
  • 武帝が人を付けて確かめると、何も見ていないのに師に会ったと偽り、約束した方術もほとんど効験がなかった。
  • 欒大は誣罔の罪で腰斬され、楽成侯も棄市となった。

西羌・匈奴の侵攻

  • 西羌十万人が反乱し、匈奴と通じて安故を攻め、枹罕を包囲した。
  • 匈奴も五原へ侵入し、太守を殺した。