資治通鑑漢紀十二 世宗孝武皇帝 元鼎 五年 前112年

冬 西羌討伐

  • 十万人の兵が発せられ、将軍李息と郎中令徐自為が西羌征討に当たり、これを平定した。

楊僕、南越に進撃

  • 楼船将軍楊僕は南越の地に入り、まず尋陿を陥し、石門を破った。
  • その後、数万人を率いて伏波将軍路博徳の到着を待ち、合流して進軍した。

番禺攻囲と南越滅亡

  • 番禺に至ると、南越王建徳と丞相呂嘉は城に立てこもった。
  • 楊僕軍は東南から、路博徳軍は西北から攻めた。
  • 夕暮れに楼船軍が南越軍を撃ち破って火を放つと、伏波軍は陣営を張って降伏者を受け入れ、印綬を与えて再び城内の説得に向かわせた。
  • 楼船軍は猛攻の末に城内へ突入し、伏波軍の陣にまで押し込んだ。
  • 夜明けには城中の者はほぼ降伏し、建徳と呂嘉は昨夜のうちに海へ逃れていた。
  • 伏波軍の追撃で校尉司馬蘇弘が建徳を、越の郎である都稽が呂嘉を捕らえた。
  • 他の諸軍や夜郎兵が到着する前に、南越はすでに平定された。

南越故地の郡県化

  • 南越の地は南海・蒼梧・鬱林・合浦・交趾・九真・日南・珠厓・儋耳の九郡に分けられた。
  • 武帝は伏波将軍への加増封を行い、楼船将軍楊僕を将梁侯に封じた。
  • 蘇弘は海常侯、都稽は臨蔡侯となり、降将の趙光ら四人も侯に封じられた。

公孫卿の「仙人の足跡」

  • 公孫卿が河南で神を待つ中、緱氏城上で仙人の足跡を見たと報告した。
  • 春、武帝はみずから緱氏城へ赴いてその跡を見た。
  • 武帝が「これも文成や五利のたぐいではないのか」と問うと、公孫卿は、神仙は人を求めて来るものではなく、積年の敬いと寛容があって初めて至るのだと答えた。
  • 武帝はこれを信じ、各郡国に道路整備や宮観・名山・神祠の修築を命じ、行幸を待つ体制を整えさせた。

泰一・后土祠に楽舞

  • 南越平定の報賽として、泰一と后土の祠に楽舞が初めて用いられた。

南夷の反乱と郡設置

  • 南越討伐のため南夷兵を徴発していたところ、且蘭君は遠征中に周辺国が自国の老弱を襲うのを恐れ、反乱して使者と犍為太守を殺した。
  • 漢は、もともと南越征討にあてる予定だった巴蜀の罪人を八校尉に分け、中郎将郭昌・衛広に率いさせて討伐した。
  • 且蘭および卭君・莋侯は誅され、南夷は平定されて牂柯郡が置かれた。
  • 夜郎侯は南越を頼みにしていたが、その滅亡後に入朝し、夜郎王に封じられた。
  • 冉駹も恐れて臣従し、官吏設置を願ったため、卭都は越嶲郡、莋都は沈黎郡、冉駹は汶山郡、広漢西部の白馬地は武都郡とされた。

東越の両属と反乱

  • 東越王余善は、八千人を楼船将軍に従わせて南越を討つと上書していたが、掲陽まで来ると海上の風波を理由に進まず、南越にも密かに通じて両属の態度を取った。
  • 漢軍が番禺を落としても駆けつけなかったため、楊僕はそのまま東越を討ちたいと願ったが、武帝は兵の疲労を理由に許さず、諸校を豫章の梅嶺付近に駐屯させて命を待たせた。
  • 余善は楊僕の請願を聞いて、ついに反乱を決断し、「武帝」を自称した。
  • 将軍騶力らに白沙・武林・梅嶺方面を扼守させ、漢の三校尉を殺した。
  • 漢側の張成・故山州侯歯らは攻撃できず、便利な場所に退いてしまい、臆病の罪で処刑された。

楊僕への叱責と東越征討軍

  • 武帝は楊僕に対し、石門や尋陿の戦功はあるが、建徳・呂嘉を東越へ逃がしたこと、兵士の労苦を省みず自分だけが凱旋の栄誉を誇ったこと、妻子を思って期日を失したこと、君命に正面から答えずごまかしたことなど、五つの過失を数えて厳しく叱責した。
  • そのうえで横海将軍韓説を句章から海路で、楊僕を武林から、中尉王温舒を梅嶺から、越侯を下瀬・戈船将軍として若邪・白沙から、それぞれ東越攻撃に向かわせた。

西域使節の弊害

  • 博望侯張騫の成功以来、外夷の珍奇や利益を説いて使者志願する者が相次いだ。
  • 武帝は、遠方行が普通は好まれぬことを理由に、自ら志願する者には節を与え、出自も問わず、必要な人員と物資も官で整えて派遣した。
  • ところが、帰国した使者の中には官物を私物同然に扱い、安く買い付けて差益を自分の利益にする者が多く、失敗しても重罰を受けることで、次は功を立てて罪を償おうとさらに使節を求める者まで現れた。
  • そのため、虚言を弄する者が競って海外事情を大げさに語るようになった。
  • 外国側も漢使に飽き、使節によって話がまちまちなため漢軍は遠く来られないと見て、食糧供給を制限して苦しめた。
  • 漢使どうしが怨みを重ねて衝突することもあり、とくに楼蘭・車師のような交通の要地にある小国が使節襲撃を繰り返した。匈奴の奇兵も時に遮撃した。

西域路の警備と河西四郡

  • 使者たちは「西域諸国は城邑こそあるが兵は弱く、容易に撃てる」と口をそろえた。
  • そこで公孫賀が浮沮将軍として九原から二千余里進んで浮沮井まで、趙破奴が匈河将軍として令居から数千里進んで匈河まで進軍したが、匈奴には一人も会わず引き返した。
  • 目的は、匈奴を遠ざけて漢使の往来を遮らせないことにあった。
  • こののち武威・酒泉の地からさらに張掖・敦煌の二郡が分置され、移民が送られて充実が図られた。

卜式、御史大夫となり財政策を批判

  • 斉相の卜式は御史大夫となったが、郡国での塩鉄専売が民を苦しめ、品質は悪く価格は高く、時には無理に買わせていると批判した。
  • また船にも算賦がかかるため商人が物資を運ばず、物価が上がると述べた。
  • 武帝はこれを聞いて卜式に不快感を抱いた。

司馬相如の遺言と封禅準備

  • 司馬相如は死に際に遺書を残し、功徳をたたえて符瑞を説き、泰山封禅を勧めた。
  • 宝鼎の出現も重なって、武帝は公卿・儒生と封禅儀礼を議したが、古来まれな大礼で前例が乏しく、方士たちは不死との結びつきを強調した。
  • 諸儒に『尚書』『周官』『王制』などから儀文を採らせたが、数年たってもまとまらなかった。
  • 武帝が児寛に問うと、児寛は封禅は帝王の盛典だが、享薦の細目は経典に明記がなく、最終的には聖主が中和をとって自ら決めるべきだと答えた。
  • 武帝はこれを受けて自ら制度をまとめ、儒術を取り入れて体裁を整えた。
  • ただし群儒が「古礼と違う」と批判すると、武帝は彼らをことごとく退け、採用しなかった。