資治通鑑漢紀十一 世宗孝武皇帝 元狩 元年 前122年

冬十月:一角獣と改元

  • 武帝が雍に行幸して五畤を祀った際、一角で五蹄の獣を得た。
  • 有司は、これは郊祀に上帝が報いて与えた麒麟だとしたため、五畤では供犠を増やして燎祭した。
  • さらに有司は、瑞祥に応じて年号を改めるべきだと進言し、この獣を得たことにちなみ、元号を元朔から元狩へ改めた。
  • 濟北王は、武帝が封禅しようとしていると見て、太山およびその周辺の邑を献上したので、武帝は他県をもってこれに代えた。

淮南王安の反乱計画の進展

  • 淮南王安は、左呉らの賓客とともに、地図を調べて兵の進路を配置し、長安から来る使者の言葉に一喜一憂していた。皇帝に男子がいないと聞けば喜び、朝廷が安定し男子もあると聞けば怒った。
  • 中郎伍被を招いて謀議すると、伍被は、王宮に荆棘が生え露が衣をぬらす夢を見たと述べ、反乱は亡国の言だと諫めた。王は怒って伍被の父母を拘束した。
  • 三月、再び召された伍被は、秦末に高祖が機に乗じて起ったのと今とでは情勢がまるで違うと説いた。近年の呉楚の乱でさえ、四郡の富と兵を持ちながら敗れたのだから、いま淮南が動いても成功しないと論じた。
  • 王はいったん泣いて退いたが、庶子不害の子建が太子を陥れた件で再び不安となり、伍被を呼んで反乱の成否を問うた。
  • 伍被は、どうしてもやるなら、丞相や御史の名を偽って豪傑や富豪の移住・徴兵を命じた偽文書や、諸侯太子・幸臣逮捕の偽詔獄書を出し、民衆の怨みと諸侯の恐怖を作り出したうえで説客を送るべきだと進言した。王はこれを採用し、天子・丞相・御史大夫・将軍・郡守らの印や漢使の節まで作らせた。
  • また、使者を罪人に見せかけて長安へ行かせ、大将軍に近づいて兵を挙げる当日に刺殺させることまで考えた。汲黯だけは節義が堅く味方に引き入れがたいが、公孫弘らは容易に動かせると豪語した。

淮南王の最期

  • 淮南王は国内の相や二千石が協力しないことを恐れ、まず彼らを殺そうとした。また、求盗の服を着せた者に羽檄を持たせ、南越兵侵入を叫ばせて兵を動員する計画も立てた。
  • ちょうど廷尉が淮南太子を逮捕しようとしたため、王は太子と相談して相らを招き殺して挙兵しようとしたが、相しか来ず、内史・中尉は来なかったので中止した。
  • なおも王は逡巡したが、太子は自殺を図って死に切れず、伍被は自ら出頭して謀反の経緯を告発した。
  • 役人は太子・王后を捕え、宮城を囲み、国中の賓客から反乱準備の証拠をことごとく押収した。
  • 公卿が党与を取り調べ、宗正が符節を持って王を治めに向かったが、到着前に淮南王安は自刎した。王后荼、太子遷、共謀者たちは族誅された。
  • 伍被はふだん漢の美徳を語っていたため助命論もあったが、張湯らの主張で結局誅された。荘助も淮南王との私交を理由に棄市となった。

衡山王一党の破滅

  • 衡山王は、太子爽を廃して孝を立てようとしていたが、爽は長安に上書して孝の兵器製造や不法行為を告発した。
  • 淮南王の党与を追う中で、陳喜が衡山王子孝の家で捕らえられたため、孝は先に自首して減刑を狙い、自らの共謀者も明かした。
  • 公卿が衡山王の逮捕を請うと、王は自殺し、王后徐来・太子爽・孝らも棄市となり、共謀者は族誅された。
  • 淮南・衡山の二獄で連座した列侯・二千石・豪傑らは数万人に及んだ。

夏:太子劉據の立太子と日食

  • 夏四月、天下に恩赦があり、丁卯、皇子據が七歳で太子に立てられた。
  • 五月乙巳晦には日食が起こった。

匈奴侵入と張騫の西域報告

  • 匈奴一万人が上谷に侵入し、数百人を殺した。
  • 以前、張騫が月氏から帰還し、西域諸国の風俗を詳しく奏上していた。大宛は漢の真西方一万里にあり、汗血馬を産し、城郭・耕作の風俗は中国に似るとされた。
  • 于窴の西では水が西海へ流れ、東では塩沢に注ぐこと、塩沢の地下水脈から河源が出ること、烏孫・康居・奄蔡・大月氏は遊牧国家で匈奴と同俗であること、大夏では蜀布や卭竹杖が流通し、その供給地として身毒があることなどが報告された。
  • 張騫は、身毒は大夏の東南にあり蜀に近いはずだから、羌を経る北路ではなく蜀から南へ抜ける道が直捷だと説いた。
  • 武帝はこれを信じ、張騫に命じて蜀の犍為から王然于らを間使として四道に派遣し、駹・冉・徙・卭僰方面から身毒への道を探らせた。だが、北は氐・莋、南は嶲・昆明に阻まれて通じなかった。
  • それでも、この探索を契機に滇国との交通が開け、滇王や夜郎侯は道が塞がれていたため自国を大国と思っていたことが知れた。使者は滇を大国で親附に値すると盛んに報告し、武帝は再び西南夷経略に力を入れ始めた。