資治通鑑漢紀十一 世宗孝武皇帝 元狩 二年 前121年
冬十月・春三月:公孫弘の死と人事
- 冬十月、武帝は雍に行幸して五畤を祀った。
- 春三月、平津献侯公孫弘が死去した。
- 壬辰、御史大夫楽安侯李蔡が丞相となり、廷尉張湯が御史大夫に昇進した。史書に年次異同があるが、ここではこの年とされる。
霍去病の隴西遠征
- 霍去病が新設の票騎将軍となり、一万騎を率いて隴西から出撃した。漢で票騎将軍の号が置かれたのはこれが初めてである。
- 霍去病は五王国を経て六日間転戦し、焉支山を越えて千余里進み、折蘭王を討ち、盧侯王を斬り、渾邪王の子や相国・都尉を捕え、首虜八千九百余級を挙げた。
- さらに休屠王の祭天用の金人を奪ったため、武帝は霍去病の封戸を増やした。
夏:霍去病・公孫敖の北地遠征
- 夏、霍去病は合騎侯公孫敖とともにそれぞれ別道から北地へ出撃した。
- 一方、張騫と李広は右北平から別道で進み、李広の四千騎が先行したところ、匈奴左賢王の四万騎に包囲された。
- 李広は子の李敢に敵陣を突き抜けさせて敵情を探らせ、士卒を励ましたうえで円陣を布き、矢が尽きるまで戦った。
- 自ら大黄弩で敵の裨将を射殺すなど奮戦し、翌日も戦って死者は過半に達したが、ちょうど張騫軍が到着したため、匈奴は解囲して去った。
- しかし張騫は後期の罪に当たり、死罪相当を贖って庶人となり、李広は損失と戦果が相殺されて無賞だった。
霍去病の大戦果
- 霍去病は二千余里も深入りし、公孫敖とは合流できなかったが、居延を越え、小月氏を過ぎ、祁連山に至った。
- そこで単桓王・酋涂王らと相国・都尉を降し、降者二千五百人、斬首三万二百級、小王七十余人を得た。
- 武帝は霍去病の封戸をさらに五千戸増し、その裨将の趙破奴・高不識・僕多らを侯に封じた。
- 反対に、公孫敖は進軍の遅滞と不会合の罪で死刑相当となり、贖って庶人となった。
諸将と霍去病の差
- この頃、宿将たちの率いる軍は士馬兵とも霍去病軍に及ばず、霍去病の部隊は常に精鋭が選ばれていた。
- 霍去病はしばしば壮騎を率いて大軍の先頭を進み、幸運にも大きく行き詰まることがなかった。
- 一方、宿将たちは遅延や迷走が多く、功が挙がらなかったため、霍去病は衛青に比肩するほど親貴を増していった。
匈奴の侵入と江都王建の滅亡
- 匈奴は代・雁門にも侵入し、数百人を殺略した。
- 江都王建は父の寵姫淖姬らや妹の徴臣とも姦通し、雷陂で郎二人が溺れた際にも見殺しにするなど、残虐と淫乱を重ねて三十五人を不当に殺した。
- 自ら罪が多いのを知り、后成光とともに越の巫女に呪詛をさせたうえ、淮南・衡山の陰謀を聞いて兵器を作り、皇帝の璽まで刻んで反乱の備えをした。
- 発覚すると、有司は逮捕処刑を請い、江都王建は自殺し、后成光らは棄市となり、国は廃絶された。
秋:渾邪王の降漢
- 秋、単于は、西方の渾邪王・休屠王が漢に大敗して数万人を失ったことに怒り、二王を召して誅そうとした。
- 渾邪王と休屠王は恐れて漢への降伏を相談し、まず使者を辺境へ送って武帝に報告を求めた。河上で城を築いていた大行李息がこれを受け、急報した。
- 武帝は偽降を疑って霍去病に出迎えを命じた。休屠王は途中で後悔したが、渾邪王がこれを殺してその衆を併合した。
- 霍去病が河を渡って迫ると、渾邪王配下には降りたくない者も多く、一部は逃亡した。霍去病は自ら入り込んで渾邪王に会い、逃げようとする者八千人を斬って統制を回復した。
- 渾邪王は単身で行在所へ送られ、残る兵衆四万余人も河を渡って降った。号称は十万であった。
- 武帝は巨額の賞賜を与え、渾邪王を漯陰侯に封じ、その禆王四人も列侯とし、霍去病にも千七百戸を加増した。
汲黯の諫言と属国の設置
- 渾邪王を迎えるため、漢は二万乗の車を出し、財政難から民間の馬を借りた。馬を隠す者も出たため、武帝は長安令を斬ろうとしたが、右内史汲黯が、自分を斬れば民は馬を出すだろうと抗弁し、降人一団のために中華を騒がせ疲弊させるのは誤りだと諫めた。武帝は黙って聞いた。
- 渾邪王一行が長安に着くと、商人が市買した品を辺塞へ持ち出したことを微文で問われ、死罪に当たる者が五百余人出た。
- 汲黯は高門殿で面会を求め、これだけ戦費と犠牲を払って得た匈奴人なら、本来は戦死者の家に奴婢として分け与え、戦利品も天下に配って民心を慰めるべきだと主張した。ところが実際には国庫を空にして賞賜し、良民を徴発してその世話をさせ、しかも無知な商人を細法で殺すのは、葉を覆って枝を傷つけるようなものだと厳しく批判した。
- 武帝はいったんは汲黯を「妄発」と退けたが、のちに降人を辺境五郡へ分散移住させ、旧来の風俗を保たせて五属国を置いた。
- その結果、金城・河西から南山・塩沢にいたる広い地域は匈奴が空白となり、偵察が来ることも稀になった。
金日磾の登用
- 休屠王の太子であった日磾は、母の閼氏や弟倫とともに官に没収され、黄門で馬飼いをしていた。
- 武帝が遊宴の折に馬を見た際、多くの者が後宮の女たちを盗み見したのに、日磾だけは視線を上げず、しかも容貌は威厳があり、牽く馬も立派だったので、武帝はその出自を問うて感心した。
- その日ただちに衣冠を賜い、馬監に任じ、さらに侍中・駙馬都尉・光禄大夫へと昇進させた。
- 日磾は親近しても失策がなく、武帝に厚く信任された。休屠王が金人を天神の像として祀っていたことにちなみ、武帝は彼に金氏の姓を賜った。