資治通鑑漢紀十一 世宗孝武皇帝 元狩 三年 前120年

春:星変と膠東王の後継

  • 春、東方に彗星が現れた。
  • 淮南王の反乱計画の際、膠東康王寄もわずかにその気配を聞き、ひそかに防戦の準備をしていた。
  • その後、淮南事件の取り調べから関係が浮上し、寄は皇太后の妹の子で武帝に最も近い親族でもあったため、発覚を恥じて病み、死去した後もすぐに後継を立てるのを憚っていた。
  • 武帝はこれを憐れみ、長子賢を膠東王に立て、寵愛していた少子慶を六安王に封じた。六安は旧衡山国の地である。

秋:匈奴の侵入と飢饉対策

  • 秋、匈奴が右北平・定襄にそれぞれ数万騎で侵入し、千余人を殺略した。
  • 山東で大水があり、多くの民が飢えたため、武帝は使者を派遣して郡国の倉庫を空にしてまで貧民を救済させた。
  • それでも不足したため、富豪や有力吏民で貧民に貸し付け可能な者を募って奏上させたが、なお救いきれなかった。
  • そこで貧民七十余万口を関西と朔方南方の新秦中へ移住させ、数年にわたり衣食と生業を官が支給し、使者が分担して保護した。
  • 車馬と冠蓋が道を埋め、その費用は億をもって数え、尽きぬほどであった。

匈奴地圧迫と昆明池

  • 漢は渾邪王の旧地を得たことで、隴西・北地・上郡では胡の侵入が減ったため、この三郡の戍卒を半減して天下の徭役を軽減した。
  • また、昆明が漢使を阻んだことから、いずれ討伐するため、滇池を模して長安西南に昆明池を造り、水戦の訓練に用いた。

徭役不足と昆明池工事

  • 法令はさらに厳格となり、免官も増え、戦争もたびたび起こったため、人々は財貨を出して役を免れる者が多かった。
  • 五大夫の旧爵や、新設武功爵の千夫を持つ者で吏になるのを望まない者には、かわりに馬を出させた。
  • かつて法を弄んだ官吏たちは摘発され、上林で棘を伐り、昆明池を穿つ労役に回された。

神馬・楽府・汲黯の諫言

  • この年、渥洼水で神馬が得られたとされ、武帝はちょうど楽府を整備していた時期でもあった。司馬相如らに詩賦を作らせ、宦者李延年を協律都尉として、新作の詩章を八音に合わせて編曲させた。
  • その歌辞は『爾雅』の語を多く用いて難解で、一経に通じる学者では意味を解しきれず、五経の専門家が集まって講習してようやく通じるほどだった。
  • 神馬を得ると、それを題材にした歌も作られた。
  • 汲黯は、王者の作楽は祖宗に奉じ、万民を教化するためのものなのに、馬を得たことを歌にして宗廟や先帝・百姓がその意味を理解できるのかと諫めた。
  • 武帝はこれを喜ばなかった。

武帝の用人と汲黯の再諫

  • 武帝は士大夫を広く招いて飽くことがないように見えたが、性格は厳しく、愛顧する臣でも小さな法犯や欺罔があればすぐに追及・誅殺した。
  • 汲黯は、人材を求める労苦に比べて、十分に使わぬうちに殺してしまえば、天下の賢才は尽き、誰と政治を行うのかと諫めた。
  • 武帝は笑って、人材を見抜けるかが問題であって、才がありながら尽くさぬ者は無才と同じだから、殺さぬ理由はないと答えた。
  • 汲黯はなお非を認めず、改めるよう求めた。武帝は群臣を顧みて、汲黯はお追従はできぬが、自分で愚かだというのは確かだと嘲った。