資治通鑑漢紀 世宗孝武皇帝 元光 五年 前130年
冬十月 河間王の朝見と雅楽
- 河間王徳が入朝し、雅楽を献じ、三雍の制度などについての詔問三十余条に答えた。彼の答えは、道術を踏まえつつ実務にも当たり、簡潔で要点が明らかだった。
- 武帝は太楽官に命じ、河間王の献じた雅楽を保存・稽古させ、年中行事の際に備えることにした。ただし、常時採用されるまでには至らなかった。
春正月 河間献王の死
- 河間王徳が死去した。中尉常麗がその徳行を奏上し、身持ちが正しく、仁愛と恭倹に篤く、学識に優れ、孤独な者や寡婦にも恵みを及ぼしたと評した。
- 諡法に照らして「聡明睿知」をもって「献」とし、河間献王と諡された。
唐蒙の進言と夜郎・牂柯への道
- 以前、王恢が東越を討った際、番陽令の唐蒙が南越を諭したことがあった。そこで彼は蜀産の枸醤を見て、その来歴を尋ねると、西北の牂柯江の方面から来ると聞いた。長安に帰って蜀の商人に尋ねると、夜郎に密かに持ち出して売っているのだと知った。
- 夜郎は牂柯江に臨み、南越が財物で従わせているが完全には支配していないと分かったため、唐蒙は武帝に、巴蜀の富を背景に夜郎への道を開き、吏を置けば南越攻略の奇策になると上書した。
- 武帝はこれを許し、唐蒙を中郎将として千人を率いさせ、食糧・輜重も持たせて巴蜀から筰関を経て夜郎に入らせた。夜郎侯多同は厚い贈り物を受けて漢への服属に応じ、子を令として置くことを約した。周辺の小邑も漢の絹帛を欲し、漢道は険しいから本格支配はできまいと思いつつ、ひとまず約束を受け入れた。
- 唐蒙の帰報を受け、朝廷はその地を犍為郡とした。
巴蜀での道路開削と民衆の疲弊
- 巴蜀から僰道を通じて牂柯江へ至る道が整備され、数万人が工事に従事したが、死者が多く、逃亡者も出たため、軍興法で首領格が処刑された。
- 巴蜀の民は大いに恐れた。武帝はこれを聞き、司馬相如を派遣して唐蒙らを戒めるとともに、「これは皇帝の本意ではない」と巴蜀の民をなだめさせた。
西南夷の服属
- 邛・筰の君長は、南夷が漢と通じて多くの賞賜を得ているのを見て、自分たちも内臣となり、南夷のように官吏を置いてほしいと願い出た。
- 武帝が司馬相如に問うと、彼は邛・筰・冉駹は蜀に近く道も通じやすい、秦もかつて通じたので、郡県化すれば南夷経営より有利だと答えた。
- 武帝は司馬相如を中郎将として節を持たせ、副使の王然于らとともに派遣した。彼らは巴蜀の官吏に持たせた幣帛で西夷の君長を懐柔し、邛・筰・冉駹・斯榆らはみな内臣を願い出た。
- これにより辺境の関はさらに西へ広がり、南は牂柯までを境とし、零関道が開かれ、孫水には橋が架けられた。卬都を通じ、一都尉と十余県が置かれて蜀郡に属した。
- 武帝は大いに喜び、さらに一万人を発して雁門の険阻を修治させた。
秋七月 陳皇后の廃位
- 大風で木が抜けた。女巫の楚服らが陳皇后に、祠祭・厭勝・婦人の媚道によって寵愛を得る術を教えていたことが発覚した。
- 武帝は御史の張湯に厳しく捜査させ、連座した者三百余人が誅された。楚服は市で梟首となった。
- 乙巳、皇后に冊を賜って璽綬を収め、長門宮に退居させた。母の竇太主は恥じ恐れて額づき謝罪したが、武帝は、皇后の不軌は大義に背くから廃せざるを得ないものの、供給は法の通りにし、長門宮も上宮と変わらぬ扱いだと告げた。
董偃の寵と東方朔の諫争
- 以前、武帝は竇太主の家で宴を開いた際、主が寵愛していた董偃を引き合わせ、衣冠を賜い、名を呼ばず「主人翁」と称して侍宴させた。以後、董君の名は天下に知れ渡った。
- 董偃はしばしば武帝の遊興に従い、北宮や平楽観で鶏闘・蹴鞠・犬馬の競いを楽しませた。
- あるとき武帝が宣室で竇太主のために酒宴を設け、謁者に董偃を引き入れさせようとすると、殿下に立っていた東方朔が進み出て、「董偃には斬るべき罪が三つある」と強く諫めた。
- 彼は、董偃が人臣でありながら公主に私事で侍ること、男女の別と婚姻の礼を乱すこと、そして皇帝が春秋に富み六経を学ぶべき時に、奢侈と耳目の快楽へ誘うことを罪として挙げた。さらに、宣室は先帝以来の正殿であり、法にかなう政以外を入れてはならず、淫乱の芽は簒奪にもつながると説いた。豎貂・易牙、慶父の故事まで引いて戒めた。
- 武帝はいったん沈黙したのち、その諫言をよしとして宣室での宴をやめ、北宮で酒宴を開き直し、董偃も東司馬門から入れた。東方朔には黄金三十斤を賜った。
- これ以後、董偃の寵愛は日ごとに衰えたが、公主や貴人たちが礼制を越える傾向は次第に広がっていった。
張湯・趙禹による法令整備
- 武帝は張湯を太中大夫にし、趙禹とともに律令を整備させた。彼らは厳格な文言を好み、官吏が職掌を離れず細かく取り締まる方向へ制度を導いた。
- 「見知法」が作られ、役人が他の役人の犯法を知りながら告発しなければ同罪に問われるようになり、相互監視が進んで、法の運用はますます苛烈になった。
八月 賢良の徴召と公孫弘
- 各地に、当世の務めに明るく、先聖の学に通じる者を徴す詔が出され、県ごとに宿継ぎで食糧を支給し、郡国の上計使に同行させて長安に送らせた。
- 甾川の人、公孫弘は策問に対し、古の善政は厚賞重罰によるのではなく、君主の正しさと民への信頼によって成ったと論じ、用人・財政・刑賞・礼義を治の根本と説いた。
- 彼は、上下の気が和すれば天地も応じ、風雨が時を得て、五穀・六畜が繁り、嘉禾や朱草が現れると述べた。
- 策を受けた者は百余人いたが、太常は公孫弘を下位に置いた。ところが武帝はその答えを抜擢して第一とし、博士待詔として金馬門に置いた。
- 九十余歳の斉人・轅固も賢良として徴され、公孫弘は身を低くしてこれに仕えた。轅固は彼に、正学を修めて世に阿らぬよう戒めた。轅固は他の儒者に嫉まれたため、老齢を理由に帰郷した。
西南夷経営への批判と公孫弘の昇進
- 巴蜀四郡から西南夷へ千里余の道路を通じたが、守備と輸送に年を費やしても道は整わず、兵は疲れ、飢え、暑湿で死ぬ者が多かった。西南夷もたびたび反き、巨万の費用を投じても成果が上がらなかった。
- 武帝は公孫弘に視察させた。公孫弘は帰って、西南夷経営には実益が乏しいと強く批判したが、武帝はすぐには受け入れなかった。
- それでも公孫弘は朝会ごとに論点を整えて述べ、正面から言い争うより、君主自身に選ばせるように進言した。武帝はその慎重さと、文法吏の実務感覚を儒術で飾る才を好み、一年のうちに彼を左内史まで昇進させた。
- 公孫弘はしばしば汲黯とともに内々に進言したが、先に発言するのは汲黯で、公孫弘はその後からまとめた。武帝はその言を喜んで多く採用したため、公孫弘はますます親重された。
- ただし公孫弘は、前もって公卿と相談した内容を、天子の前に出るとしばしば翻して上意に従った。汲黯は廷中でこれを「不忠」と詰ったが、公孫弘は「自分を知る者は忠と見るし、知らぬ者は不忠と見る」と弁じ、武帝はその答えを容れた。側近の讒言があっても、武帝はかえって彼を厚遇した。