資治通鑑漢紀 世宗孝武皇帝 元光 六年 前129年

冬 商人の車への課税と漕渠の計画

  • はじめて商人の車に算税が課された。
  • 大司農の鄭当時は、渭水から河へ通じる運河を掘れば、関東の粟を近道で輸送でき、あわせて渠沿いの一万余頃の田を灌漑できると進言した。
  • 春、武帝は数万人を発して運河を掘らせた。三年後に完成し、人々はこれを便利だとした。

匈奴侵入と衛青の初陣

  • 匈奴が上谷に侵入して官民を殺略したため、関市は閉じられた。
  • 武帝は、衛青を車騎将軍として上谷へ、公孫敖を騎将軍として代へ、公孫賀を軽車将軍として雲中へ、李広を驍騎将軍として雁門へ、それぞれ一万騎ずつ出して匈奴を撃たせた。
  • 衛青は龍城に至り、匈奴の首級・捕虜七百を得た。龍城は匈奴が天を祭る大会所であり、この勝利は象徴的だった。
  • 公孫賀は戦果なく、公孫敖は敗れて七千騎を失い、李広も敗れた。李広は生け捕りにされ、二頭の馬の間に縛りつけられて運ばれたが、途中で死んだふりをし、胡兵の馬に飛び乗って弓を奪い、鞭打って南へ逃げて帰還した。
  • 公孫敖と李広は吏に下され、死罪相当とされたが、贖って庶人となった。衛青だけが関内侯に封じられた。
  • 衛青は奴隷出身ながら騎射に優れ、士大夫には礼をもって接し、士卒にも恩を施したため、人々は進んで彼のために戦った。武帝が人を見抜く力は、ここで天下に知られた。

夏・秋 天災と韓安国の出鎮

  • 夏、大旱と蝗害があった。
  • 六月、武帝は雍に行幸した。
  • 秋、匈奴はしばしば辺境を侵し、とくに漁陽で激しかったため、衛尉韓安国が材官将軍として漁陽に屯した。